思い出すだけで心が痛む話がある。
高校時代、同じクラスに戸田くんというメガネをかけた背の低い男がいた。戸田くんは、引っ込み思案で友達がいなかった。たまになにかの用事で話しかけても、言葉に詰まり、何を言っているのかわからない。当時この言葉は存在しなかったが、典型的なコミュ症だ。
夏休み明け、「幽遊白書」全19巻を学校に持ち込んだことで、戸田くんへのクラスメイトの評価が一気に変わる。まともな大学への進学を諦めた奴らは、授業中にも関わらず幽遊白書を読みふけった。1日で19巻を読み切ってしまう強者まで現れた。
みんなが「幽遊白書」を読み終えた頃、戸田くんは「いけ!稲中卓球部」を学校に持ち込んだ。幽白からの稲中、このフリ幅にクラスメイトは狂喜乱舞。調子に乗った戸田くんは、「MASTERキートン」、「はじめの一歩」とつぎつぎに漫画を持ち込んだ。「次に戸田は何を持ち込むか?」クラス中の注目が集まり、戸田くんはみんなから“漫画王”と呼ばれ出した。
そんなある日、クラスで1番ガサツな男、近藤が僕を誘った。
近藤:おい沢野! 戸田ん家行けば漫画読み放題だぜ! うひゃひゃひゃひゃ!
僕は学校帰りに、県外にある戸田くんの家に行くことになった。
近藤:遠いなぁ。この距離で漫画大量に持ってくるとか、戸田はバカなのか?
近藤:足が痛い。戸田、お前マッサージ得意?
近藤:実際、漫画なかったら戸田ん家なんて絶対行かねぇよなぁ!
近藤は道中、ガサツな発言を繰り返す。しかし、上手く立ち回れない僕は、戸田くんをかばうこともできず、
沢野:あははー確かにー
と同調するような言葉を吐いてしまう。戸田くんは「えへへ」と笑って誤魔化していた。
1時間かけてようやく到着すると、戸田くんの家はイメージと違って、なかなかのボロアパートだった。玄関は物で溢れ返り、何だかちょっとすえたような臭いがする。弟と共同だという部屋の前で、戸田くんは急に立ち止まった。僕は、嫌な予感がした。
近藤:なんだよ戸田!早く部屋に入って漫画読ませろよ! おい! 戸田! 戸ーー田!!
無言でモジモジする戸田くん。近藤は戸田くんを押しのけて、無理矢理ドアを開けた。
予感は的中。本棚には学校で読んだ漫画しか置いていない。漫画王と呼ばれた戸田くんは、実は漫画をほとんど持っていなかったのだ。そして戸田くんは、鞄から新品の「ラッキーマン」の1~3巻を取り出し、震えながら呟いた。
戸田:バ、バイト代が、た、たりなくて、こ、こ、これしか新しいの、、、ないんだ
戸田くんは、みんなと仲良くしたいがために、バイトをして漫画を買っていたのだ。
気まず過ぎる展開に、言葉が出ない。なんだかこっちまで震えてくる。しかし、ここで僕が頑張らないと、また近藤がデリカシーのない発言をしてしまう。だが、どうしても上手い言葉が出てこない。そして静寂の中、ついに近藤が口を開いた。
近藤:お、俺ラッキーマン大好きなんだよ。サ、サンキューな!
近藤はその場に座り込み、ラッキーマンを読み始めた。近藤のページがめくれないほど震える指先と、時折聞こえてきた鼻をすする音を、僕は一生忘れない。