小さいお子様をお持ちのパパママには、「かもしれない運転」ならぬ、「かもしれない育児」を推奨したい。
ちなみに「かもしれない育児」で検索したところ、意外にも一切ヒットしなかったので、今後どこかでこの言葉を目にしたら僕が言い出したということをどうか思い出してほしい。
かもしれない育児が子どもを救う
「子どもの手の届くところにボタン電池を置いておくと、飲み込んでしまうかもしれない」
「お風呂に入れているとき、自分が頭を洗っている間に溺れてしまうかもしれない」
これが「かもしれない育児」だ。
言われないでもやってますーという人がほとんどかもしれないが、実はけっこうできていない人が多い。
先日、娘と公園で遊んでいたところ、ママ友とのお喋りを楽しんでいるママさんの横で、2歳くらいの女の子がバクバク砂を食べているところを目撃した。
「砂を目の前にしたら食べてしまうかもしれない」
という「かもしれない育児」が、そのママさんには不足していたのだ。
駅の改札で、おっさんが持っていたキャリーケースに鼻を強打して泣いてしまった男の子も見たことがある。
「キャリーケースのおっさんの視界は、意外と狭いかもしれない」
という「かもしれない育児」が足りてなかったママさんのミスだ。
2人でグミを分け合っていた小さな姉弟。弟が落としてしまったのを見た心優しき姉は、自分のグミを弟に与え、落ちてたゴミがついたグミを食べてしまった。
「優しさは時に悲劇を生むかもしれない」
この「かもしれない育児」を想像できなかったママさんの罪は重い。子育てにおいて、“かもしれない”は身近に溢れているのだ。
「かもしれない育児」の恐怖
しかし、“かもしれない”は無数に存在する。
「この道を歩いたら突如カミナリに打たれるかもしれない」
「急に隕石が落ちてくるかもしれない」
こんなことまで予測して行動していたらキリがない。なので我々は、確率が高そうな“かもしれない”もしくは、被害の大きな“かもしれない”を選択して、子育てをしていかなければならない。なかなかに精神的負担が大きな「かもしれない育児」だが、愛する我が子のリスクは、全力で避けてあげたい。
ちなみに超心配性の僕は、「かもしれない育児」をこじらせている。
信号は赤だけど、子どもが急に飛び出してしまうかもしれない。そうならないように手をしっかり繋がなければならない。でも、さっき娘はアンパンマンポテトを手づかみで食べていたからヌルッとして手がすっぽ抜けてしまうかもしれない。じゃあ強めに握ろうか?
そうなると痛がった娘は僕を敬遠するようになり、余計に飛び出して轢かれるリスクは高まるかもしれない。それなら娘が背負っているリュックを掴むか?
でも、急に走り出したらリュックに引っ張られて娘が窒息してしまうかもしれない。とりあえず飴でも与えてこちらに集中させるか?
いや、与えすぎて病気になったら…。あぁ、どうしよう。そうこうしてたら青になった。これで一安心
…精神的疲労がエグイので、こうはならないように気をつけよう。