今晩はフランスとベルギーによる素晴らしい準決勝がありますね。もちろん僕もとても楽しみにしていますが、あえてプレビューはしないでおこうと思います。この段階まで来ると、試合前にあれこれと予想を並べ立てるのもいささか無粋な気がしないでもないからです。我々は慎み深くテレヴィを凝視して、ただただフットボールの官能に圧倒されればよい。気持ちが高ぶりすぎてつい蓮實重彦のような口ぶりになってしまいましたが、残りの4試合はそんなスタンスで楽しんでいこうと考えています。
ここでは「日本のサッカーをめぐる言論が、かなりの勢いで進歩している」という話をしたいと思います。その進歩がもたらす、今までは考えられなかったような可能性についても。
映画はサッカーではないが、サッカーはある程度までは映画である
株式会社ソル・メディアが発行する海外サッカー専門誌『月刊フットボリスタ』と、同社が運営するウェブ版『フットボリスタ』。そこに寄稿する優れた書き手たちによって僕は勝手に心を折られ、そして勝手に勇気をもらいました。
僕にはサッカーについての専門的な知識も、選手としての経験もありません。実際にサッカーをやっていたのは小学生まで。5年生のときにGKから転向して3バックの一角、もしくは右のウイングバックを担当していたのですが、前線に上がると永遠に戻ってこないタイプのクソガキで、言うまでもなく万年補欠でした。世界のどこにでもいる、ちょっとサッカーが好きなだけの運動音痴です。そもそも持ち場を放棄するような責任感のないディフェンダーに、毎日更新しなければならないW杯についての記事を書く資格なんてない。あるわけがない!
そんな僕に指針を与えてくれたのが他でもない、『フットボリスタ』の優秀な書き手たちでした。彼・彼女たちは最先端の戦術や育成のトレンドを紹介し、世界各国の「現場の空気」を見事に切り取って、読み応えのある記事を量産していました。テクニカルタームが頻出する、最新のサッカーについての専門的な記事……。なんてカッコいいんだろう。でも僕には絶対に書けない。そこで僕は閃いたのです。
「そうか、サッカーの話をしなければいいんだ」
その結果として生まれたのが今回の連載で、サッカーの話をあまりしないことでなんとかここまで続けることができました。「アンチ・フットボリスタ」としてのアティテュードが僕をぎりぎり社会人たらしめていたと言っても過言ではありません。ありがとう、『フットボリスタ』。
前置きが長くなってしまいましが、『フットボリスタ』は本当に素晴らしい媒体です。雑誌としてもすごく面白いのですが、特にここ最近のウェブ版『フットボリスタ』の存在感は図抜けていると思います。単純に記事が面白いし、面白い記事を書ける人を見つけてくるのがうまい。『フットボリスタ』がフックアップした人材や題材が、他の媒体のクオリティまで底上げしているような印象すらあります。結果的に、サッカーをめぐる言論自体がすごく活性化している。ナイーブな議論ばかりが目についた数年前の状況と比べると雲泥の差です。
自由闊達な言論環境と、世界中のサッカーについての知識の集積。そんな状況で僕がさらに期待するのは、『フットボリスタ』が中心となって小さなヌーヴェルヴァーグが起きることです。
いずれは指導者になるであろう23歳の俊英・林舞輝さんはもちろん、最先端の理論と現場を知る人たちが集うことで、『フットボリスタ』が日本サッカーにとっての『カイエ・デュ・シネマ』になればいい。もちろんサッカーと映画は異なります。批評家が同時に作家(監督、指導者)でもあり得るような状況は、現実的にはなかなか難しいかもしれない。しかしなにごとにおいても、批評と実践は本質的に不可分なものではないでしょうか。『フットボリスタ』初代編集長の木村浩嗣さんがスペインでライセンスを取得して少年チームを指導しているように、言論と現場の壁を超えるような動きが今後の大きな潮流になっても決して不思議ではないはずです。
日本サッカーにジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーが生まれることを夢想してはいけない理由はない。林舞輝さんがレオス・カラックスやオリヴィエ・アサイヤスになれない理由もない。つまるところ、僕が言いたいのはそういうことです。