まず、ピッチの外の話をしましょう。
フットボールの故郷であるイングランドで、1996年にリリースされた代表応援アンセム「Three Lions」がリバイバルヒットを記録しています。同楽曲の「Football’s coming home(フットボールが帰ってくる)」というフレーズは、快進撃を続ける若きイングランド代表をサポートする人々の合言葉になりました。そんな熱狂的な雰囲気の中、元オアシスのノエル・ギャラガーはライブのMCで冷ややかにこう言い放ちます。
「本当のことを言うとさ、フットボールが帰ってくるわけねえと思ってる。お前らだって、それは知ってんだろ?」
この発言に対して、弟のリアム・ギャラガーは「帰ってくるんだよ、腰抜け野郎」と応戦。何度となく繰り返されてきた、おなじみの兄弟喧嘩が勃発しました。
ストーンズも負けてはいません。「応援したチームが必ず負ける」という呪いを持つことで有名なミック・ジャガーが、準決勝に挑む母国に声援を送るためにモスクワに駆けつけました。猛烈な勢いで拡散する「C’mon England」という彼のツイート、歓喜の雄叫びを上げるクロアチア人サポーター、そして本当に負けてしまうイングランド……。
なにもかもが日常の風景です。どうしようもない既視感で頭がクラクラした僕は、眠気覚ましのコーヒーを飲みながらこんな仮説を立ててみました。
「本当のことを言うと、フットボールはもうとっくに故郷に帰っているんじゃないか? そもそも、最初からどこにも行ったりしていないんじゃないか?」
一応、試合の話もしましょう
もし「Football’s coming home」がイングランドの優勝を意味するのであれば、キーラン・トリッピアーの直接フリーキックがゴールネットを揺らしたとき、フットボールはかなり近くまで帰ってきていました。仮に現住所が大宮で実家が横浜だとしたら、蒲田くらいまではきていたんじゃないでしょうか。
今大会のイングランドにとって最大の得点源になっているのが、バスケットボールなどを参考にしたという緻密なセットプレーです。14分のコーナーキックでは、ゴールに対して縦一列に選手を配置。トリッピアーの助走と同時に、クロアチアのディフェンダーを引き連れて複数名がニアへと侵入し、手薄なファーに残ったハリー・マグワイアがヘディングシュートを放ちました。ゴールにはなりませんでしたが、研究量の多さを感じさせる洗練された動きです。もちろん狙い通りのボールを供給できるトリッピアーのキック精度も素晴らしい。クロアチアがゾーンではなくマンマークで守っていたら、さらに危険なプレーになっていたかもしれません。
その後もイングランドのペースで試合が進みます。30分にはデレ・アリからハリー・ケインへのホットラインで決定機を作り、35分にもカウンターでケイン、アリとつないでジェシー・リンガードがフリーでシュートを放っています。前半のうちに追加点を奪えていれば、フットボールは多摩川を越えて川崎くらいまでは帰ってきていたのに……。どちらも非常にもったいない場面でした。
後半に入ってもクロアチアの反撃は散文的で、ケインとラヒム・スターリングを除く8人で2ラインを敷いて守るイングランドのブロックを崩せません。逆に、イングランドが得意のロングボールから幾度かチャンスを作ります。中でも56分、わずか7秒で完結した攻撃は見事でした。ジョーダン・ピックフォードのロングキックをケインに当て、競り勝ったボールを拾ったスターリングがリンガードに送り、リンガードはためらいなくダイレクトでシュート。ポゼッションもトランジションもいらない。ロングボールとセットプレーだけあればいい。そんな剛直すぎる英国スタイルは、ややクロアチア贔屓の僕にさえ「やはりフットボールは横浜の実家に帰るしかないのかもしれない」と思わせました。
ただ、どんなときも近くて遠いのが実家というものです。試合の終わらせ方を意識するようになったイングランドに対して、心身の消耗度が閾値を超えたクロアチアが強烈なモチベーションだけで反撃に転じます。
68分。スローイングでのリスタートから、ルカ・モドリッチがディフェンスラインにボールを戻します。デヤン・ロブレン、ドマゴイ・ヴィーダ、ラキティッチ、左サイドのイヴァン・ストリニッチと、低い位置でのボール回しから再度ラキティッチへボールが渡り、ここで右サイドに展開。アタッキングサード手前でボールを受けたシメ・ヴルサリコは、ペナルティボックスを一瞥してアーリークロスを上げます。このクロスに対して、カイル・ウォーカーの背後まで迫っていたイヴァン・ペリシッチがアクロバティックに足を振り上げてファウルすれすれの同点ゴール! 近年ではむしろ希少性の高い、きわめてオーソドックスなビルドアップからの得点でした。
息を吹き返したクロアチアは、ここ2試合で240分を戦ったとは思えない驚異的なテンションで逆転を目指します。なにが彼らをそこまで駆り立てていたのかはわかりませんが、「フットボールの帰省だけは絶対に阻止しなければならない」とか、「ミック・ジャガーのジンクスを終わらせるわけにはいかない」とか、そんなどうでもいいことは1ミリも考えなかったでしょう。
イングランドにとって惜しかったのはアディショナルタイムのセットプレー。トリッピアーのキックにフリーのケインが合わせたものの、叩きすぎたヘディングは力なくバウンドして枠外へ。試合は延長戦にもつれ込みます。あれだけ消耗していると言われていた(そして実際に消耗していた)クロアチアは、スターティングメンバーのまま90分を戦い抜きました。我々にとってフットボールは120分の競技である、とでも言わんばかりに。
延長戦を前に円陣を組む両チーム。ベスト姿が話題の英国紳士、ガレス・サウスゲート監督が身振り手振りで選手たちを鼓舞すれば、クロアチアはスタッフも含めて全員が密集して気合を入れ直します。どちらも応援したくなる熱い場面ですが、試合の流れがクロアチアに傾いているのは明らかでした。
イングランドの集中力が限界を迎えたのは、延長後半の109分。ペリシッチがヘディングで競り勝ったボールに、どのディフェンダーよりも素早く反応したのはマリオ・マンジュキッチ! 力強く左足を振り抜いてゴールを決め、カメラマン(『AFP通信』のユーリ・コルテス氏)まで巻き込んだ半狂乱のセレブレーションを見せつけます。こうなると、もうイングランドに反撃する気力は残っていません。負傷で退場したトリッピアーがベンチで涙を浮かべる中、試合は2対1で終了。フットボールは横浜の実家を素通りして小田原から熱海へ、あるいはさらに西へと去っていきました。
たまには実家に帰りましょう
もし「Football’s coming home」がイングランドの優勝を意味するのであれば、残念ながらフットボールは帰ってきませんでした。でも、フットボールってW杯やEUROで優勝すれば帰ってくるものなのでしょうか? 優れた競技成績によって覇権を握った国が、そのままフットボールの所有権を持つということでしょうか? そういう認識自体が、フットボールに対して傲慢だと思いませんか?
W杯で優勝しなくたって、イングランドの人々は日々の生活の中で充分にフットボールを楽しんでいるじゃないですか。若く優秀なイングランド代表は勇敢に戦って見事な成績を収めたじゃないですか。ギャラガー兄弟は相変わらずバカだし、ミック・ジャガーはわざとやっているとしか思えないし、アーセナルは弱いし、デイビッド・モイーズは天才です。フットボールはどこにも行っていない。単純に、ナショナルチームの好成績という拡大鏡がなければフットボールを見失う人間がいるだけです。むしろ、フットボールに帰らなければいけないのは人間の方なのです。
先に「近くて遠いのが実家」と書きましたが、逆もまた然りです。そんなわけで、今年の夏は帰省しましょう。