ヤマシタトモコの『違国日記』について、ある友人が「人間の感情のすべてが詰まっている」と表現した。僕は人間の感情の専門家ではないから、否定も肯定もできなかった。ただ、素晴らしい漫画だという感想は一致した。とりあえず、そのときの我々の気分を検証するために、『違国日記』のレビューを書いてみようと思った。なのでこの文章は、ほんの少しだけ手紙のような性格を帯びている。
いかにして類型を超えるか
両親を交通事故で亡くした15歳の田汲朝(たくみあさ)と、身寄りのない彼女を引き取った叔母の高代槙生(こうだいまきお)の共同生活……などと安直に要約してしまうと、たぶん『違国日記』の魅力は伝わらない。類似のモチーフを扱った作品は山ほどある。吉田秋生の『海街diary』は言うに及ばず、特定のエッセンスに着目するならジャック・タチの『ぼくの伯父さん』もあずまきよひこの『よつばと!』も先行作品に該当するだろうし、もっと言えば『レ・ミゼラブル』の時代から幾度となく反復されてきた類型だ。あらすじを紹介しても、あまり意味のない作品だと思う。
もちろん、どれほど骨格が類型的だったとしても、肉の付け方、服の着せ方次第で作品としての印象は大きく変わる。万人が入り込みやすいからこそ陳腐化しやすい類型をウェルメイドなものに仕上げるために、ヤマシタトモコは登場人物をきわめて複雑な多面体としてデザインした。とりわけ主役に据えられた槙生と朝は、それぞれ異なるニュアンスでユニセックスな美しさをたたえた外見も含めて、一言では表現できない独特のパーソナリティーを具えている。
35歳で少女小説家の槙生は一見してクールで理知的、含蓄のある言葉で朝の心に光を灯したかと思えば、子どもじみた弱々しさやズボラな部分を覗かせたりもする。人見知りで他人との生活が苦手であることを自称しながらも、友人には恵まれており、人間関係そのものが貧しいわけではない。また、自身に対してモラルハラスメント的な言動を繰り返してきた姉(朝の母)を心底嫌っていたにも関わらず、朝に対しては「公正に接してやらなければいけない」と心がけている。20年来の友人・醍醐奈々(だいごなな)による「尊敬するよ」という言葉は、多くの読者の評価とも一致するはずだ。
一方、朝はあまり手のかからない素直な少女だが、その心象風景は悲しくなるほど乾いている。さらに15歳という年齢(ただでさえクソ面倒くさい!)も相まって、しばしば不安定な部分が表面化する。過眠、フラッシュバック、やり場のない怒り、反発する対象が消えてしまったことによる混乱……。少なくとも現時点では、登場人物の誰ひとりとして、彼女が胸裡に抱える孤独を埋める手立てを持ち合わせていない。生活の面倒を見てくれる槙生にしても、作中の表現を借りれば「違う国」に属する人間なのだ。しかし彼女たちの違い、噛み合わなさこそが、『違国日記』という作品の白眉でもある。
ふとした拍子に堤防が決壊し、涙と鼻水を流して「さみしい」と繰り返す朝に対して、槙生は優しく寄り添いながらも「あなたの根本的なさみしさをわたしはどうにもしてやれない」と告げる。朝にとっては残酷な響きかもしれないが、いくらかまでは人生の真実を言い当てた、槙生らしい誠実な言葉だ。彼女たちはこれから時間をかけて、お互いの込み入った感情を理解できない、という事実を咀嚼しながら生活を続けていくのだろう。その落としどころについては、高校3年生になった朝が描かれた第1話で、すでに示唆されている。
私たちの複雑な内面
友人の醍醐が槙生と話すときの二人称の揺らぎが心地いい。フラットな「槙生」、少し冗談めかしたいときの「槙生くん」、ややシリアスな「きみ」、もっとも気安い「あんた」といった具合に、彼女たちの過ごしてきた時間の蓄積が呼びかけのバリエーションとしてごく自然に反映されている。槙生が高校卒業時に醍醐からもらった手紙(二人称は「きみ」だった)はわかりやすく感動的だが、むしろその話を朝に教えたことを「ちょっと後ろめたい」と感じる場面にこそ、リアルな感情の機微を決して見落とすまいとする作者の特長がよく表れているのではないだろうか。
ヤマシタトモコは奥行きを想像させるのがとてもうまい。たとえば、亡くなった「槙生の姉」と「朝の母」は紛れもなく同一人物だが、それぞれの抱く彼女の記憶やイメージが完璧に一致することはない。そうした人間くさく生々しい齟齬の積み重ねによって、ありふれた育児ファンタジーになりがちなモチーフが、血の通った立体的なドラマへと昇華している。冒頭に引いた「人間の感情のすべて」という友人の言葉を思い出す。それは『違国日記』に描かれた喜怒哀楽の量的な豊富さを指しているのではなく、ひとつひとつの言葉や表情の「本当らしさ」についての褒め言葉だったのかもしれない。Eくん、どうっすかね? 当たってる? 全然違う感じ?
現実の人間の内面は当たり前に複雑だ。そしてその複雑さをフィクションにしっかりと落とし込める作家は、たぶんあまり多くない。描かれている感情が全体の8割でも6割でも、あるいはごくごく一部であったとしても、真に迫るような切実さがきちんと込められているのなら、それだけで素晴らしい作品だと言い切ってもいいような気がしている。とみに最近は。