黒田硫黄という漫画家のなにが、どこが特別なのか、あらためて言葉にするのは難しい。読めばわかる。読んでわからないのなら仕方がない。なにごとにも相性があるし、そもそも僕だってよくわかっていないのかもしれない。権威ある人々の権威ある言葉に誘導されて、ただなんとなく、すぐれた作家だと思い込んでいるだけなのかも……。
でも、『大日本天狗党絵詞』や『茄子』、あるいは『ネオデビルマン』の3巻に収録された「ゼノンの立つ日」などの傑作を読み返すと、僕のつまらない不安は空の彼方に吹き飛んでしまう。権威や感傷とは別の次元で、裏も表もなく「豊かな時間、豊かな読書体験だった」と言い切ることができる。
言葉では到底言い尽くせない、べらぼうに素晴らしいサムシングがそこにはあるのです。風が吹いています。人や人ではないものたちがグダグダしています。黒田硫黄の漫画にはたくさんの美点があるけれど、ナードなノリで
「いいよね」
「天才だよね」
「ここ、このコマさあ」
「若隠居してえ」
「松浦かわいそう」
「中華食いたくね?」
「ミシ怖い」
などと話をしたくなるのが最高だと僕は思うわけです。
黒田硫黄が黒田硫黄であればいい
つい最近発売された、黒田硫黄の4作目の短編集『きょうのカプセル』を読んだ。そして案の定、しみじみと感動してしまった。「男と女」や「タイムカプセル」といった作品の秀逸さに? 「特品ビーム課長」が激務の狭間で見るピュアな愛の夢に? オナニーが趣味のおじさんの迫真の表情に? ギークなウンチクに? 失われていない才能に? それらすべてに? それらすべてに!
黒田硫黄のファンの大半は作者が諸々の理由によって寡作であることを知っているだろうし、今年になってファッションブランド「niko and…」のCMで突然、小松菜奈に憑依したことも知っている。正直とても奇妙なCMだったけれど、それがこの短編集のための布石だったとしたら全然許せる。全然許せるどころか、いくらかなりとも作者の収入になるんなら万々歳だ。
もういいんですよ。板垣恵介版の『餓狼伝』で、北辰館のトーナメントに乱入した藤巻十三に対して、師匠の泉宗一郎が「藤巻十三が藤巻十三のままでいてくれたならそれでいい」みたいなことを言って、竹宮流の道着を貸し与えるじゃないですか。ちょうどあんな感じですよ。もちろん我々は泉先生ほどエラくはないし竹宮流の道着も持っていないんですが、黒田硫黄は黒田硫黄であればいいんです。僕たちはたった数百円で天才の漫画を買い、読むことができる。これが僥倖でなくてなんだと言うのですか?
「はんだ(改行)ずけと(改行)くい?」
おまけ程度に表現の話を。黒田硫黄の特徴のひとつとして、大胆なアングルを多用するという点が挙げられる。「男と女」にも開始早々に印象的な仰角のコマがあるが、俯瞰・仰角のダイナミズムを最大限に味わえるのは「空気の娘」だろう。寄り引きの妙味で言うなら、猫の誕生秘話(?)を描いた「やつらの足音のバラード」だ。大胆でプリミティブで、しかし洗練されていて、なおかつ適切。とにかくイヤミなくらい漫画がうまい。それでいて技術に溺れているような印象をほとんど与えないのが天才の天才たる所以だ。
パンチラインを吐きまくることでおなじみの黒田硫黄の漫画の登場人物だが、その内容はもちろん、吹き出しの使い方ひとつとっても「これしかない!」という絶妙なバランスに調整されている。たとえば「男と女」から、20頁目から21頁目にかけての「なぜというのはないんでは?」「なぜというのはない…」というやりとり。まず女の「なぜというのは」という瓢箪のような吹き出しが顔の右に来て、顔の左に「ないんでは?」、それに対して男は重なりながらもそれぞれが線で区切られた2つの吹き出しで「なぜ」「というのはない」と応じる。この間の作り方、抑揚の付け方が完璧なのだ。僕の拙い文章で説明してもまるで伝わらないだろうが、マジで完璧なんです。読んでください。
さらに例を出すなら「特品ビーム課長」。「鬼切さんハンダ付け得意?」という課長の問いかけに対して、鬼切さんが丸い吹き出しで「はんだ(改行)ずけと(改行)くい?」と聞き返す場面。言葉の意味を解釈するのに時間がかかっているということなのだが、なんなら縦長の吹き出しにカタカナで「ハンダヅケトクイ?」と聞き返してもよかったはずなのだ。でも絶対に丸い吹き出しで「はんだ(改行)ずけと(改行)くい?」の方がいいじゃないですか! てかそれしかないじゃないですか! わかります? まあたぶん実際に読まないとわからないんですけど……。
こういう話を地球上のすべての人類と永遠にしていたい。なのですべての人類は黒田硫黄を読みましょう。今週は以上です。