思えば大洋ホエールズ時代からずっと、横浜ベイスターズを応援する際に「監督」という因子は自分にとってあまり重要ではなかった。プロ野球自体は1985年頃から見ていたはずだが、記憶にある最も古い監督の記憶は1987年〜1989年に指揮を執った古葉竹識監督だ。といってもそれは采配の記憶ではなく、家族で行った横浜スタジアムの帰り道、車で信号待ちをしているときに偶然古葉監督の車が右隣に停車したことに気づいた親父が突然運転席の窓を開け「古葉さん〜!応援してますよ!」的なことを叫んだという甘酸っぱい思い出なのだが。
「監督が誰か」は大した問題じゃなかった
もちろん、普通にチームと監督は不可分のものとして記憶に刻まれてはいる。自分にとって初めてのAクラスである3位を見せてくれた須藤監督は強烈に印象に残っているし、森監督時代のつまらなさ、雰囲気の暗さはトラウマですらあった。山下監督の上滑り感、空回り感は見ていて居心地が悪く、第二次大矢政権や尾花監督に至っては暗黒というイメージしかない。
しかし、それらも単に「監督」という1パーツの印象に過ぎず、チームを語る上でサッカーの「◯◯JAPAN」のように監督の名前を冠して考えることはほとんどなかったといっていい。2012年〜2015年の中畑監督も、監督のキャラクターは好きだったもののそれがチーム力に直結していたとは言い難く、むしろその明るさがプロ野球史上初の前半戦首位→最終的に最下位という悲劇の悲哀を際立たせてしまった感すらあった。
その中で、唯一、1998年〜2000年に指揮を執った権藤博監督だけは、明確にその哲学が好きだった。徹底的に選手を大人扱いし、選手がやりたいことをやらせる。しかしそれは決して放任ではなく、あくまでも考えるのは選手だというチームづくり。「お前ら、やってこい」と選手を送り出し、責任は親分が取る。結果、強烈な自主性を持った大人のチームができあがった。98年の横浜は、球団・ファンすべてを巻き込んだ一体感がよく取り沙汰されるが、チームは決して仲良し集団などではなく、一匹狼の集まりだった。圧倒的な「個」と「個」のぶつかり合いから生まれた高次元でのチームワークが強さの源泉だったのだと思う。
権藤さんが教えたこと
権藤監督はピッチャー出身だったため、自身でも「自分はピッチングコーチだ」と言っていたようにバッテリーに関する指導が多かった。それも、一貫して植え付けたのは「攻める姿勢」。キャッチャーの谷繁が、打たれた相手に対し次の打席でピッチャーに同じ球を要求し「やり返してやろうぜ」とニヤ~っとするのを見るたびに、見ているほうはワクワクしたものだ。それを選手自身も感じていたからこそ、あのチームは強かった。
権藤さんで最も印象に残っているのは、実は横浜監督時代ではなくその以前、1991年のダイエーホークス投手コーチ時代だったりする。当時のホークスは下位の常連で、投手力不足は深刻。前年の90年は田淵幸一監督の就任1年目だったが、順位は最下位でチーム防御率がこの30年で最悪の5.56という体たらくだった。その立て直しを求められたのが権藤ビッチングコーチだ。
権藤コーチは、投手陣の腰が引けて相手の内角を攻められないことが投壊の原因だと看破。キャンプ、オープン戦を通してそれを投手陣にしつこく説いていった。しかし、死球あるいは長打の危険を伴う内角に投げるにはピッチャーに制球力が必要であり、なにより勇気のいることだった。ホークス投手陣も、すぐにはうまくいかない。
そんな不安混じりで開幕したシーズン開幕戦。前年7勝15敗、防御率5.79ながら若きエースとしての期待を背負った村田勝喜が、大一番で権藤の教えを見事に実践してみせる。オリックスを相手に逃げることなく攻めのピッチングを見せ、開幕完投勝利を収めたのだった。その試合後の、権藤コーチの様子が忘れられない。権藤コーチは一言、「バッテリーの勇気ですよ」と言うと記者の前で涙したのだ。これは、自身も選手の目線に立ち、選手に寄り添ってきたからこそ流れた涙であり、自分の職責をかけてでも選手を信頼したからこその涙だろう。
ラミレスに期待すること
さて。横浜DeNAは来季もアレックス・ラミレス監督が指揮を執ることが決まった。この記事でも書いたが、成績だけ見ればラミレスは権藤監督以来となる結果を残している監督だ。采配に対する疑問の声も多いが、負ければ批判されるのが監督なので仕方ない。それより自分はラミレスに権藤さんにも通じる「心意気的なもの」を感じることが多い。データ重視といいつつ、情とひらめきとしかいいようがない策をこの3年間で何度も見てきた。選手とファンの立場に立ち、ロジックよりも「おもしろいこと」を選ぶことができる監督だと思うのだ。
ラミレスがその意図を選手に完全にわからせることができたとき。選手が、ラミレスの真意を理解してさらに自主性も発揮できるようになったとき。そのときこそ、98年のような、ちょっとやそっとじゃ揺るがない強いチームができるのではないだろうか。
長くなったので続く。