何かと話題を振りまいてくれるキングコングの西野亮廣が、テレビ番組のインタビューロケ中、番組ディレクターの対応に激怒し収録を途中退席したそうだ。曰く、「芸人なんだから面白く返してくれるんでしょ」とでも言わんばかりに、失礼な質問を繰り返されたらしい。
この件に対し「信頼関係が構築できてない間柄での“いじり”は単なる悪意」といった西野に賛同する意見が多く上がるなか、テリー伊藤は西野がディレクターをブログであげつらったことに異論を唱え
「俺だったらSNSに書くようなことはしない。2人の問題であって、誰かに報告するというのは西野の弱さだよね」
と指摘した。弱いと言われた西野はこれに対し
「僕らは、今の自分が意見を言える場で意見を言っちゃダメなんでしたっけ? テレビで自分の意見を表明することがセーフで、ブログで自分の意思を表明することが『弱さ』になる理由が、僕には1ミリも理解できません」「テレビが上、ネットが下という考えはクソほど気持ち悪いです」
と反論。その後、テリー伊藤と西野がネット番組で直接対談するまで騒ぎが発展している。
テリー伊藤の指摘は、思わず膝を打つものだった。そしてそれに対する西野の反応は、ネット、SNSというものに対する世代間の意識の差を浮き彫りにするものだ。
我々は、なにかというと「せーんせーにー言ってやろー」と言う奴を弱虫だと嫌ってきた。チクるというのは卑怯者のやり方だったはずだ。怖い先輩がバックにいることをチラつかせるのは、弱いくせに誰よりもいきがってる恥ずかしい奴だった。
“公の場で言う”というのは、当事者同士の問題を“より高次の存在”の力に委ねる行為であり、構造的にはチクるのと変わらない。ホームルームで話題に出すとかもそうだ。昔、知り合いの記者が飲食店で嫌な思いをして店側と揉めた際、「まあ紙面でそっちを不愉快にさせてもいいんだけどね」と言ったときは、「こいつすげーな(悪い意味で)」と思ったりもした。
ブログなりSNSなりで書くというのは、そういうことだ。僕らの世代にとってSNS=ネットであり、公の場以外の何物でもない。しかし、SNSをコミュニケーションツールとして認識している層や、自分が吐き出す場だと思っている層は確実に存在する。
自分の都合のいい範囲だけを想定し、自分は限られた相手に対してだけ発信しているのだから公の場ではないという感覚。どれだけ騒ぎになっても馬鹿ッターがなくならなかったのも、自分のツイートがそれだと本当に認識できていないからだろう。
同僚の悪口をせっせとツイートしている若手を咎めたときも、何がいけないのか理解できてない様子だった。心で思っているだけならいい。面と向かって言う勇気がないのも仕方ない。しかしそれをツイートという行為で消化するな。そうしたSNSの使い方は弱さと言うほかない。
テリー伊藤が言ったのはまさにこのことだったにもかかわらず、西野はこれが理解できずに「ブログ」が悪いと曲解した。向こうはテレビで公然と自分を弱いと言ってるのに、ブログで書いた自分が咎められたと思ったのだろう。テリー伊藤はブログが悪いと言ってるのではなく、2人の問題を公に晒すなと言っただけなのに。
公然わいせつの要件は、“「不特定多数の人の目に触れるような場所」で公然とわいせつな行為をすること”であり、“実際に何人に目撃されたか”ではない。
SNSだって、“誰に向けたか”“何人が見ているか”ではなく、誰でも見られる状態にした時点で、もう公の場に晒している。見た人が勝手に見ただけ、なんて責任放棄は認められない。
それをわからずに、“自分が好きに何を言ってもいい場”と勘違いしてSNSを使う人が結構いる。そしてそれが名の知れた芸能人にもいるというのは、恐ろしい話だ。