HADO 2018 CLIMAX SEASON閉幕

凱旋門賞について僕が知っている2、3の事柄

リニューアルしたロンシャン競馬場で行われた2018年の凱旋門賞は、エネイブルの連覇で幕を閉じた。武豊が騎乗したクリンチャーは、大方の予想通りの惨敗。この結果に、少しだけ安堵した競馬ファンは僕だけではないはずだ。

もちろん、クリンチャーと陣営の挑戦を貶める意図はまったくない。ただ、なんの屈託もなく「クリンチャーに勝ってほしい」と口にすることがはばかられるくらい、日本のサラブレッドは凱旋門賞で敗北を重ねすぎてしまった。

クリンチャーの勝利を願わなかった多くの人たちにとって、凱旋門賞とはエルコンドルパサーが、ディープインパクトが、そしてオルフェーヴルが勝てなかったレースなのだ。勝つべき馬たちがことごとく負けてしまったことで、もはや並のGI馬が勝ってはいけないような雰囲気になっている(クリンチャーに至っては、GI馬ですらない)のは否めない。

おそらく、すべては20年前に始まった。スピードシンボリの時代から競馬を見ている翁には申し訳ないけれど、僕にとって凱旋門賞といえばまずエルコンドルパサーだ。彼の勝利と敗北の記憶は日本の競馬に関わるすべての人間の心の奥底に澱のように沈殿し、撹拌されて洗い流される日をずっと待っている。

1998年から1999年にかけての出来事

1998年の秋、僕は毎週末ごとに高円寺の書店「ブックスオオトリ」の一角に陳列された競馬新聞の馬柱を眺めては欲情する、気色の悪い小学4年生だった。とみに連勝中の強豪馬たちが出走するメインレースの馬柱は絶品で、中でも最高に僕のリビドーを刺激したのが1998年の毎日王冠だ。

年明けのバレンタインSから宝塚記念まで5連勝中のサイレンススズカに、5戦5勝のエルコンドルパサー、そして4戦4勝のグラスワンダーと、「1」という数字がびっしりと並んだ日刊競馬の1面……。他の細かい数字の意味はほとんどわかっていなかったと思うけれど、とにかくその「1」はいつまでも凝視していられるだけの輝きを放っていた。

レースはサイレンススズカの圧逃劇。エルコンドルパサーは2馬身半差の2着、グラスワンダーはそこからさらに5馬身以上も離された5着に沈んだ。直線に入るまでにボキャブラリーを使い果たした青嶋達也アナウンサーの「どこまで行っても逃げてやるっ!」という実況が、20年経っても鼓膜の奥にこびりついている。

この毎日王冠の裏で開催されていた京都大賞典では、僕がもっとも愛する競走馬であるセイウンスカイが緩急自在の逃げでメジロブライト、シルクジャスティス、ステイゴールドといった強豪古馬を完封。東京と京都でタイプの違う2頭の逃げ馬が素晴らしいレースを生み出したあの秋晴れの日曜日は、競馬を見始めたばかりの僕にとって形容しがたいほどハッピーな1日だった。

しかし1ヶ月も経たないうちにすべては暗転する。

1998年10月下旬のこと

10月29日に発表された横浜フリューゲルスの合併吸収。そして11月1日の天皇賞(秋)でのサイレンススズカの予後不良。僕はあの秋のことを、いろいろなものごとが『ドラゴンクエストVI 幻の大地』のセーブデータのようにあっけなく消滅した季節として記憶し続けるだろう。

それは中田英寿がセリエAのデビュー戦でユベントスから2ゴールを奪った秋だった。そしてセイウンスカイが菊花賞を逃げ切り、エルコンドルパサーがジャパンカップを横綱相撲で押し切った秋でもあった。菊花賞で2着、ジャパンカップで3着に敗れたスペシャルウィークは年明けのAJCCへ向かい、年末の有馬記念ではグラスワンダーが復活の勝利を飾った。僕は学校に通わなくなり、自宅で『ダービースタリオン』に没頭した。

1998年から1年後の秋のこと

1年後の秋、僕はやはり学校にはほとんど行かず、『サガフロンティア2』や『聖剣伝説 LEGEND OF MANA』に熱中していた。世の中の状況はまた少し変わっていて、たとえば元フリューゲルスの山口素弘と楢崎正剛は名古屋グランパスに移籍していたし、エルコンドルパサーは凱旋門賞を走るためにフランスにいた。中田はまだペルージャにいたけれど、ビッグクラブからの引き抜きの噂が絶えなかった。セイウンスカイは札幌記念で差し馬に転向し、前年の毎日王冠とジャパンカップでそれぞれエルコンドルパサーに敗れたグラスワンダーとスペシャルウィークが国内で2強体制を築いていた。

1999年の10月3日、凱旋門賞の日。仏愛2ヶ国のダービーを制したモンジュー、そしてキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを圧勝したデイラミという馬が強いらしい、ということは当時のスポーツ新聞にも書いてあった。しかしサンクルー大賞とフォワ賞を連勝したエルコンドルパサーも、紛れもなく本命の1頭だとその新聞は断定していた。それだけ言うのなら、たぶん本当にそうなのだろう。僕はその情報をすんなりと受け入れた。

当日のロンシャン競馬場は、降り続いた雨の影響で空前の不良馬場になっていた。しかしその程度のことさえ当時の僕は知らなかった。そもそも生中継でレースを見ていないのだ。結果を知ったのは翌朝のニュースか、スポーツ新聞だったと思う。翌週、10月10日のフジテレビの競馬中継内で、ようやく僕はゴール前でモンジューに差し切られるエルコンドルパサーの姿をしっかりと見ることができた。それは想像していた以上に惜しいレースだった。悔しいという感情以上に誇らしかった。でも、今になってあらためて映像を見返すと、どうしようもない悔しさがこみ上げてくるのが不思議だ。

その日の毎日王冠ではグラスワンダーがメイショウオウドウの猛追をかろうじて凌いで勝利したが、青嶋達也は2年連続でスタミナ切れを起こした。京都大賞典ではスペシャルウィークが7着に惨敗した。しかし天皇賞(秋)では、そのスペシャルウィークが見事に巻き返して天皇賞の春秋連覇を達成。枠入りを嫌った1番人気のセイウンスカイは5着に敗れた。僕の心は痛んだ。

1ヶ月後、スペシャルウィークが凱旋門賞馬のモンジューをジャパンカップで撃破しても気分は晴れなかった。エルコンドルパサーはジャパンカップ当日の昼に東京競馬場で引退式を行った。グラスワンダーは毎日王冠から有馬記念に直行するとのことだった。セイウンスカイは屈腱炎を発症した。僕は相変わらずゲームばかりしていた。

それから

ディープインパクトがレイルリンクとプライドに差し切られた2006年の凱旋門賞では、友人たちと一緒にNHKの中継を見ていた。直線で先頭に立つべく仕掛けた武豊に対して、岡部幸雄は「まだ、まだ!」と叫んでいた。その後、ディープインパクトは禁止薬物イプラトロピウムで失格処分。僕の周りにはこの一件ですっかり競馬熱が冷めてしまった人間もいた。

同調教師・同騎手の“チーム・エルコンドルパサー”で挑んだナカヤマフェスタが2着に入った2010年の凱旋門賞は、たしかグリーンチャンネルの無料放送で見たと思う。英ダービー馬のワークフォースとの壮絶な叩き合い。望外の結果だったにも関わらず、レースの前も後もあまり盛り上がらなかった記憶がある。宝塚記念を勝っただけのナカヤマフェスタに凱旋門賞は荷が重すぎるという風潮は、すでにこの時期には形成されていたのかもしれない。

2012年、オルフェーヴルが直線で突き抜けたときは9割の視聴者が勝利を確信しただろうし、「日本のオルフェーヴルだ!」と叫んだ関西テレビの岡安譲アナウンサーもきっと同じ気持ちだったろうと想像する。直後、オルフェーヴルは先頭に立って気を抜いたのか、内側に急激に斜行して失速。オリビエ・ペリエが騎乗した伏兵のソレミアにゴール直前で捉えられてしまった。

2013年はオルフェーヴルとキズナの2頭が参戦。この年もオルフェーヴルは2着(キズナは4着)だったけれど、勝ったトレヴには5馬身も突き放された。ほとんどノーチャンスの完敗と言ってもいいような着差だった。実況を任された青嶋達也は「オルフェーヴル今年も2着!」と反応に困るフレーズを絶叫した。つくづく変わったアナウンサーだと思う。

エルコンドルパサーがモンジューに惜敗した1999年の段階で、数年後には日本を代表するにふさわしい馬が凱旋門賞を勝つだろうと僕は気楽に考えていたし、ディープインパクトやオルフェーヴルによってそれは叶えられると思っていた。しかしそうはならなかった。むしろ時間が経てば経つほど心の澱は嵩を増していき、今ではクリンチャーを無邪気に応援するのも気が引けるようになってしまった。

20年前、競馬新聞に欲情していた不登校児は、ありふれたポルノに欲情する29歳になった。ゲームはあまりやらなくなったが、いたずらに時間を浪費してしまう悪癖は変わらない。過去と現在のどちらが美しいとか正しいとかの話ではなく、とにかくなにかを待つにはあまりにも長い時間がすでに経過してしまったことを、僕は凱旋門賞のたびに思い知らされている。

凱旋門賞を勝つ日本馬もいつか現れるだろうけれど、それが何年後のことであれ、かつて僕が競馬新聞に抱いたリビドーが蘇ることはないだろう。

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