手話を扱う夫婦の子どもが、1才の時点で手話を理解し、一定のレベルでコミュニケーションができるようになったという話を聞いたことがある。
これは赤ちゃんが発音を体得するよりも前から、対話できるほどの知能を持っている証だ。身振り手振りだけで意思を伝えるベビーサインなんかもこの類いと言える。
記憶に残らないはずのディズニーランド
1年以上前、まだ喋ることができない娘を連れてディズニーランドに行ったことがある。
小さな子どもを連れて行くなんて最高の家族サービスのように見えるかも知れないが、もしかしたら親のエゴだったのかもしれない。
ディズニーランドにいる娘を見たい。写真を撮りたい。それはただの自己満足。もちろん娘が喜ぶように努力はしたが、歩くことがやっとの1歳児には、ありがた迷惑だったかもしれない。大きくなったとき、記憶に残っている可能性はほぼゼロだろう。
侮れない子どもの記憶
先日、部屋を掃除していたら当時購入したポップコーンの入れ物が出てきた。それを目にした娘は急にテンションを上げる。
「ミニーちゃんのポップコーンの入れる箱だねぇ。ポップコーンのミニーちゃん、甘くて美味しいねぇ!」
娘は覚えていたのだ。笑顔で覚えている限りの情報をたどたどしくも勢いよくまくしたてる。僕の思いは、届いていたのだ。なんだか泣けてくる。
「ミニーちゃんのポップコーン、鳥さんが食べてたねぇ!」
そう。
確かに落としたポップコーンを鳥が食べていた。細かなことまでよく覚えているものだ。
「ポップコーン、ママとパパに、あげたねぇ!」
そうだった。
娘はポップコーンを抱え、僕らに1つずつあ~んして食べさせてくれたのだ。
「ミニーちゃんのポップコーン、パパは、美味しくないねぇ!」
僕は食感が苦手でポップコーンがそれほど好きではない。その日もそれほど口にはしなかった。
「ポップコーン、みんな食べてたねぇ。たくさん人がいたねぇ!」
そう。
確かに人は並んでいた。
「ママとパパと、座って食べたねぇ!」
ベンチに座って休憩していたのだ。
「ポップコーン、全部、たべちゃったねぇ」
…(細かくてしつけぇ)
ポップコーン一つで何個の思い出を作りやがるのだ。ちょっと入れ物が出てきただけで、とんでもない量のポップコーン情報が飛び出してきた。
だが、大人にとっては小さなできごとでも、子どもにとってはすごく大きな思い出だったのかもしれない。少しうるせーなとは思ったが、笑顔で聞き続けることにした。
それにしても、娘のテンションのあがりかたはスゴい。ポップコーンだけでこれなのだから、ディズニーランド全体を思い出しでもしたら、一日中喋り続けそうな勢いだ。
「ミッキーと、ミニーちゃんと、ドナルドと、デイジーと、グーフィーがいたねぇ」
全体を思い出してしまったようだ。
このあと僕は、1時間以上に渡って娘のディズニー思い出トークを聞かされた。笑顔でうんうん頷くのは少し精神的にクルものがあったが、懐かしさと感心でそれなりに楽しめたのであった。
喋れずとも子どもの記憶力はすごい
だが、僕がこの記事で言いたかったのはそんな楽しい思い出の話ではない。真面目な話、子どもの記憶力に関しては恐ろしいものがある。
「まだ喋れないから、目の前でテキトーなことをしたり喋ったりしても大丈夫だろ」
このように油断してしまっている親は多いのではないだろうか? 正直、僕には娘が思い出してしまってはマズイ行動が多々ある。
呼吸が愛おしくて、娘の口に我が鼻を接近させ、口の臭いを永遠嗅いでいたこと。
あまりにも可愛かったので、寝転がる娘のお尻に顔を埋めていたこと。そのままオナラ待ちをしたことも。
ほかにも、切った髪の毛を食べたことだってあるし、脱いだオムツを懐にしまってスーパーに買い物に行ったことだってある。ここでは書けないようなことも、僕はいくつもやってしまっている。
もし、何かのきっかけでそれらのことを娘が思い出してしまうようなことがあれば、将来間違いなく僕は娘に嫌われるだろう。そんな不安を抱きつつ、僕は毎晩寝ている娘の口の臭いを嗅いでいる。