体が大きい。アルバイトの日は毎朝スティックパンを食べて、インスタントコーヒーを飲む。理知的なようで、ちょっと抜けているところもある。性格は(たぶん)おおらか。女性にはあまり免疫がないらしく、「気配の残った家にいるのがいたたまれない」という理由で普段は乗らないバスに乗ったりする。とてもキュートな人物だと思う。
純文学系の雑誌『文像』の新人賞を受賞した30歳の杉浦紺は、警備員のアルバイトで生計を立てながら、小説を書いて暮らしている。オカヤイヅミの『ものするひと』(ビームコミックス)は、そんな杉浦と周囲の人々が働いたり遊んだり悩んだり呆けたりするさまを、心地よい温度感で描いた秀作だ(そしてこの導入は戦後最悪レベルで凡庸だ)。
普通の人間、杉浦紺
作家っぽいことをしている人はどこか変わっている。そんな共通認識のようなものが、一応、世の中にはある。たとえば、ひとつ前の朝の連ドラでトヨエツが演じていた役のような……。違うな。ちょっと待って。もっとありていに、身も蓋もない感じでいこう。
作家っぽいことをしている人の中でも、小説家は特に頭がよさそうで、なんとなくカッコいい。ものごとの捉え方が独特で、世間のリズムにいちいち合わせたりせず、基本的に超然としている(気がする)。あるいは『恋愛小説家』のジャック・ニコルソンみたいに、極端に気難しかったり毒舌だったりすることもある。実際の小説家がどうなのかはともかくとして、好ましからざる類型の域を出ないパブリックイメージとしては、そんなに外していないと思う。
つまり「変わっている」ということなのだが、少なくとも『ものするひと』に描かれている杉浦の生活はごくごく地味でまっとうだ。彼自身、目の前のできごとに当然のように動揺する、いわゆる「普通の人間」でしかない。
彼は単純に書くことが好きで、小説家には「やりたいことやってたらなってたんだよ」という。しかし恋愛や進路について思い悩み、新中野のサイゼリヤ(じゃないかな? 違うかな?)で安いワインを飲みながらダベる大学生のヨサノやマルヒラにとっては、単刀直入な杉浦の生き方がまぶしく映る。ある意味でありきたりな、だからこそ万人に響く葛藤と逡巡。純文学というあまり馴染みのない題材とは裏腹に、『ものするひと』はわりにオーソドックスな青春漫画なのかもしれない。雨の中を傘も刺さずに走ったりするし!
とはいえ、作者の技術力はありきたりの域をはるかに超えている。さらりとした線で微妙な表情の変化を表現する人物の描き方は高野文子みたいだし、各話ごとに工夫を凝らした見開きのバリエーションも素晴らしい。間取りを見せるための天井抜きなど漫画ならではの大胆なアングル、メリハリの効いた寄り引きの使い分けも巧みだ。登場人物をめぐるドラマももちろん興味深いけど、視覚的な愉しみひとつとっても、かなり読みでのある作品に仕上がっている。
『パターソン』と『ものするひと』
ところで。僕は『ものするひと』を読みながら、ジム・ジャームッシュ監督の映画『パターソン』のことを連想していた。このふたつの作品はたぶん、「ちょっと」と「そこそこ」の中間くらいのレベルで似ている。ひとまず、思いつくかぎりの類似点を並べてみよう。
言葉を使ってなにかを書く人を主役に据えているところ。それでいて、どちらも専業ではないところ。パターソン(アダム・ドライバー)と杉浦、ふたりとも背が高いところ。行きつけの店で友人とすごす時間を大切にしているところ。『パターソン』にメソッド・マン、『ものするひと』にヤマトくんと、ラッパーが端役で登場するところ。これくらいかな? アーハン?
もちろん相違点も多々ある。パターソンには愛する妻と犬がいるけど、杉浦は30歳の独身男性だ。パターソンが書くのは詩で、杉浦が書くのは小説。そもそも『パターソン』は映画で『ものするひと』は漫画なのだから、単純に比較すること自体、あまり適切でも誠実でもないだろう。
それでも『パターソン』と『ものするひと』は似ている、と言い張らせてほしい。両作の最大の共通項は、パターソンと杉浦が生活上のあらゆる瞬間に書くことについて考えている、ないしは実際に書いているところだ。広義の「作家」をモチーフにした作品は山ほどあるけど、言語芸術の生成過程そのものをしっかりと描いたものはそう多くない。
創作する彼らの目、彼らの手、彼らの思考を観客(読者)は追体験し、自分まで高尚な人間になったような気分に……。いや、いくらなんでも大仰すぎるか。なんにせよ、作家が作家らしいことをしている場面をのぞき見るのは楽しい。彼らが小さい幸福や小さい失望を味わっている姿には、しみじみと愛おしい気持ちを喚起させるなにかがある。結局のところ、どんなことでも熱中している人っていいよね、僕たちも頑張ろうね、ということに尽きるのかもしれない。しんどいけれど。