嘘か本当かわかりませんが、1980年代には浅田彰の『構造と力』を片手にナンパする男がいた、という話を聞いたことがあります。本当だとしたらめちゃくちゃな時代ですね。でも、もしそんなクソダサい手法が現代においても通用するならば、僕は『砕かれたハリルホジッチ・プラン』と『モダンサッカーの教科書』を小脇に抱えて女性に声をかける不審者になりたい。そう思って毎日を生きています。
新しい時代の言葉たち
日本サッカーのニュー・アカデミズム。そう表現するのが適切かどうかわかりませんが、質的にも量的にも、明らかにこれまでとは異なったレベルでサッカーをめぐる言葉が飛び交う世の中になっています。特徴的なのは、松木安太郎の居酒屋解説やセルジオ越後の難癖を楽しんでいた層を困惑させる、まるで耳馴染みのないテクニカルターム。ザッケローニの「インテンシティ」くらいまでは、スポーツ新聞の購買層にもまだ理解できたかもしれません。しかしここ数年で、トランジション、ポジショナルプレー、5レーン理論、ハーフスペース、ペップ・コードにゲーゲンプレッシングと、欧州サッカーのトレンドからさまざまな用語が輸入され、専門家とディープなファンが織りなす議論、とりわけ戦術論はきわめて難解なものにシフトしつつあります。
「モー、よくわからん! おじさんは帰るっ!」
東海林さだお先生のエッセイならこんなノリで雑にまとめにかかるところかもしれませんが、そんな冗談が通じないくらいサッカーを愛する人々の情熱は凄まじい。難解な用語をしっかりと咀嚼して自身のボキャブラリーに組み込み、さらに広めようと努力した結果、共通の認識をベースにまとまった議論が生まれうる状況にまで漕ぎつけました。
とはいえ、まだまだ言論環境の整備は途上であり、議論ができる人間の母数も少ない。よりライトなファンやメディアをも巻き込んで、この国のサッカーリテラシーをさらに向上させなければならない。それが日本サッカーのレベルアップにも繋がるはずだ。そう考える人たちにとって、前日本代表監督、ヴァイッド・ハリルホジッチの不可解な(場当たり的な、あまりにも情緒的な、そして悪い意味で日本的な)理由による解任は到底納得できるものではありませんでした。やや乱暴な要約ですが、そんな空気の中で上梓されたのが五百蔵容氏の『砕かれたハリルホジッチ・プラン』(星海社新書)だった、と僕は捉えています。
ハリルホジッチの手腕を知る
そもそも『ハリルホジッチ・プラン サッカー後進国日本 逆転の戦術論』として4月25日に発売する予定が、校了直前に解任のニュースが届き、書名も含めて大幅な改稿を迫られたという本書。結果的にはそんな経緯も含めて大きな話題を集めたわけですが、そういったセンセーショナルな側面に期待して読むと、『砕かれたハリルホジッチ・プラン』の中で展開されている地道な検証にやや面食らうかもしれません。
目を見張るのは、五百蔵氏の緻密で粘り強い考察力です。ハリルホジッチという監督が持つ優れた分析能力と実際的な対応能力を、ブラジルW杯の決勝トーナメント1回戦のドイツ対アルジェリア戦、そしてロシアW杯最終予選の日本対オーストラリア戦という「真剣勝負」の場から抽出し、図を用いながら解説。「エリアの選択と活用」という観点から、彼が「ここぞ」という試合でいかにして戦略的な優位性を担保したのか、非常に明瞭かつ具体的に言語化しています。
世界的な潮流を踏まえたうえでサッカーという競技の特性を検討することで、ハリルホジッチのキーワードである「デュエル」がどれほど普遍的で重要なものなのか、あらためて強調している点も特筆に値します。本書を読めば、ハリルホジッチの手腕はさておき、「日本人が苦手なデュエルを強要していた」「“縦に速く”しか戦術がなかった」という一部のメディアによる印象操作が、いかに一方的で的外れなものだったか理解できることでしょう。
ただ、図解による戦術分析は、普段サッカーを見ない層には少し難しいかもしれません。実は、そんな人にも読みでのある書籍としてオススメできる理由があります。なんと『砕かれたハリルホジッチ・プラン』は、「ハウツー本・ビジネス本」としても読むことができるのです!
この失敗談を役立てるために
日本代表のこれまでの歩みをまとめた部分しかり、現在はJ2のレノファ山口を指揮している霜田正浩氏(元日本サッカー協会技術委員長)の証言しかり、『砕かれたハリルホジッチ・プラン』は日本サッカーの未来を思う著者のきわめてシンプルなひとつの意志に貫かれています。それはつまり、
「過去をきちんと検証してほしい」
という本当に悲しくなるくらい当たり前すぎる願いです。わざわざそんなことを願わなければいけないくらいJFAの差配は無軌道だし、マスコミはファナティックだし、なにもかも毎度毎度その場しのぎで、ビジョンもなにもあったものではない。本書はそんなJFAと日本のサッカー界に対して外部の常識人から提出された稟議書である、と言うことができるかもしれません。
しっかりとした計画を練ってなんらかの成果を出し、そこに至るプロセスを検証、蓄積された情報を参照可能なアーカイブとして保存して、検討材料として「次」につなげること。そんなありふれたPDCAサイクルの構築に失敗したレポートとしての『砕かれたハリルホジッチ・プラン』を新社会人に読ませることで、生産性が低いと言われている日本の労働環境になんらかのソリューションがもたらされることを僕は期待します。冗談です。
いずれにしても、『砕かれたハリルホジッチ・プラン』は丹念な論考と健全な意志によって組み立てられた悲しい報告書であり、キャッチーなタイトルとは裏腹に、いい意味で地味な「入門書」でもあります。現代サッカーをめぐる難解な用語もすっきりと定義・説明されており、それこそ『モダンサッカーの教科書』と並んで、向こう何年かの議論のメルクマールになるかもしれません。まあ、ビジネスやナンパに使えるかどうかはわかりませんが……。すべてはあなた次第です。