すべては夜に決行されて、夜のうちにすべてが終わる。僕にはそれを止めることができない。
瞬間について
22時、僕は沼袋の銭湯にいた。とても混んでいた。露天風呂では芸人志望の若者がコントのネタを練っていた。内湯はハーブ湯で、効果のほどはわからないが、少し得をした気分になった。風呂から上がって、冷房の効いた脱衣所でサービスのヤクルトを飲んだ。そして10円玉で動くタイプのドライヤーで髪を乾かした。もうすぐW杯の決勝が始まる。でもスターティングメンバーも僕の予定も、まだなにも確定していない。
喫煙所で1本だけタバコを吸って、番台の女性に挨拶をして銭湯を出た。僕は家ではなく、どこか外でサッカーを見たいような気分になっていた。すでに友人が「中野のHUBで決勝を見よう」と誘ってくれていた。22時30分ごろにあらためて連絡すると、「もう席を取っている」とのことだった。ありがたい話だ。僕は自転車に乗って中野駅方面へ向かった。風呂上がりに中野通りを自転車で走ることほど気持ちのいい行為を他にあまり知らない。僕は口内に残留したヤクルトのほのかな酸味を味わいながらペダルを漕ぎ、予想以上に自分が高揚していることに気が付いた。
HUBに入ると、友人は喫煙席の隅っこで文庫本を読んでいた。僕は注文カウンターでビールをもらって、友人と軽く乾杯をした。キックオフまで、およそ1時間15分。まだそこまで混んでいないが、すでにスタンディングの客もちらほら出てきている。日本人もいれば外国人もいる。友人と僕の2人の席にさえ1人の日本人と1人の韓国人がいるのだから、当たり前と言えば当たり前のことなのだが。
僕たちは他愛もない世間話や、それぞれの近況についての話をした。笑いもしたし、苦虫を噛み潰したような表情になったりもした。それは完全に一般的な会話だった。モニターではずっとNHKが放送されていた。解説者たちが映像を交えながら今回のW杯を振り返り、それが終わると日本代表の今後を担うであろう若手選手たちが紹介された。僕たちはそれを見るでも見ないでもなく、一般的な会話を続けた。どの瞬間を切り取っても特殊とは言えない、本当にありふれたコミュニケーションだった。一瞬、北条裕子の『美しい顔』の話題になりかけたが、お互いに作者が美人であることくらいしか知らなかったので、あまり長続きはしなかった。
試合開始まで1時間を切ったところで、両チームの先発メンバーが紹介された。どちらも準決勝と同じ、ベストの11人がチョイスされていた。僕と友人は負傷が噂されていたイヴァン・ペリシッチの名前を確認してひとまず安堵した。このあたりから、店内はにわかに混み合ってきた。みんなW杯の決勝を見に来ているのだ。彼らがなぜ家ではなくHUBで見ようと思ったのか、僕にはわからなかった。僕自身もなんでここにいるのか、正直よくわかっていなかった。ただ、なんとなくこういう場所で見た方が体験として印象に残るような気はしていた。
試合に先立って、会場のルジニキ・スタジアムではクロージング・セレモニーが行われた。「旧共産圏特有のマスゲームだ」と、僕はあまり面白くない冗談を言った。それは大きなスポーツイベントに付随する、ごくごく当たり前のセレモニーだった。別に旧共産圏に限ったものでもないし、特に感動的なものでもない。途中、コンガを叩くロナウジーニョが登場したときは盛り上がったが、見せ場はそれくらいだった。試合開始の20分前には、僕も友人も1杯目のドリンクを飲み切ってしまっていた。僕は2杯目を購入するために再度カウンターへ向かった。
カウンターには長い行列ができていた。一瞬並ぶのを躊躇したが、飲み物なしで2時間を過ごすのは耐えられない。僕は背の高いフランス人の後ろに並んだ。オリヴィエ・ジルーのアーセナルのユニフォームを着ていたから、たぶんフランス人だと思う。もしかしたらイギリス人かもしれない。ジルーを含むフランスとクロアチアの22人が入場して両国の国歌を斉唱し終えたころ、ようやく注文する番が回ってきた。大きいサイズのジントニックとカシスソーダを頼むと、ドリンクを提供する係の若い女性が「てかカシスねえし!」と言った。彼女は明らかにイライラしていて、カシスリキュールのボトルを補充しようとして食器をまとめて落としてしまった。
「大丈夫ですか? めっちゃ大変そうですね」口に出した瞬間に、馬鹿なことを聞いてしまった、と思った。
「大丈夫じゃないですよ。サッカーマジ興味ないんで。あー、アホくさい。帰りたい」
本当に、冗談抜きで腹が立っているようだった。それでも彼女はてきぱきとドリンクを作って提供してくれた。それが仕事だとはいえ、なんだか申し訳ない気持ちになった。彼女のサッカーに対する認識が、「興味ない」から「嫌い」になる瞬間を自分の手で演出してしまったような気がした。僕は人波をかき分けて席へ戻り、友人と2回目の乾杯をした。24時から24時1分。キックオフから数十秒が経過していた。
永遠について
序盤からクロアチアが押し気味に試合を進めていた。しかし、昨晩の彼らはとにかく不運だった。18分のフランスの先制点の場面。そもそも、マルセロ・ブロゾビッチのアントワーヌ・グリーズマンに対するファウルの判定自体が厳しいものだった。そしてグリーズマンがセットプレーを蹴ったとき、ポール・ポグバはオフサイドポジションにいて、明らかに競り合いに関与していた。ボールがマリオ・マンジュキッチの頭をかすめてオウンゴールになってしまったことだけでなく、最初からなにもかもがクロアチアにとって悪い流れだった。ゴールの瞬間、HUBの店内でも当然のように大きな歓声が上がった。クロアチアびいきの僕にとっては、なんとも言えない歓声だ。それでも、28分にセットプレーの流れからペリシッチが左足を振り抜いて同点に追いついたときはとんでもなく興奮したし、「いける」と思った。友人(ややクロアチア寄り)ともう一度乾杯をした。すべてはここから始まるような気がした。
でも、残念ながらそうはならなかった。
グリーズマンのコーナーキックをペリシッチがクリア。このプレーに対して、フランスの選手はハンドではないかと主審にアピールする。確かにボールがペリシッチの手に当たっている。しかし故意に当てにいっているわけではないし、仮にペリシッチが触れなくても、後ろに控えていたイヴァン・ストリニッチがクリアしていたであろうボールだ。VARによる長い検証の結果、フランスにPKが与えられた。主審が何度も映像を見返すほど微妙な判定だっただけに、クロアチアを応援する身としては少し不満が残る。これをグリーズマンが冷静に決めて2対1。決勝戦はフランスがリードして折り返すことになった。
ハーフタイム、HUBの店内に「フードはラストオーダーになります」とアナウンスが入った。僕たちはあらかじめ購入していたスパゲティーを揚げたつまみを齧り、前半戦を雑に振り返った。友人は「最近、ルカ・モドリッチが女子に人気」という話をした。レアル・マドリードでのチームメイトとの絡みにも定評があるそうだが、そういった嗜好は正直よくわからなかった。なので返答として、イヴァン・ラキティッチの奥さんがかなりの巨乳だという話をした。こんな話だったら、僕は永遠に続けられる。
後半、早い時間帯に追いつきたいクロアチアは攻めに出た。ボールを奪うエリアも、前半よりも高い位置に設定しているように見えた。攻めるクロアチア、守るフランスという構図は変わらないが、キリアン・ムバッペの前方のスペースは明らかに広がっていた。ムバッペを走らせてカウンターで追加点。それがフランスにとって最良で、クロアチアにとって最悪の展開だった。
52分、ポール・ポグバからの長い縦のパスがムバッペに通る。ドマゴイ・ヴィーダを一瞬で振り切ってシュートを放つが、これはダニエル・スバシッチがしっかりとセーブ。そのこぼれ球を拾って反撃に転じたクロアチアだったが、ここで何度目かの、この試合でもっとも不条理なできごとが起こった。
モドリッチからラキティッチへのサイドチェンジが通ったときに、何人かの乱入者たちがピッチを横切って試合が止まった。ブーイングが轟くスタジアム。そしてHUBの店内に広がるため息と笑い声。僕と友人は顔を見合わせて首をひねった。大舞台での乱入者は珍しくないが、しかしなぜ、よりにもよってこのタイミングなんだ。
後で知ったことだが、乱入者たちはロシアのフェミニズム・パンク・ロック集団、Pussy Riot(プッシー・ライオット)のメンバーだった。彼女たちの声明文を読んで、突然の乱入が抑圧的なロシア政府とプーチンに対する反権力のパフォーマンスだったこと、それが切実な行為であったこと等々を、ある程度までは理解した。W杯の決勝という舞台を選んだ意味もわかる。完全に同調できるとまでは言わないが、そういったメッセージを全世界に発信するのは意義があることだと思う。ただ、なぜ、あのタイミングで?
単純に、プレーが切れているときであれば問題はなかったのだ。しかし、めまぐるしく攻守が入れ替わっていたあの一連のシークエンスの真っ最中に、なぜ……。「たかが球蹴り」だとか「政治の祭典」だとか「人権抑圧国家であるロシアの国威発揚」だとか、コンシャスな人たちがなにを言っても構わないし、そういった指摘はおおむね正しい。単純に比較できるものではないにせよ、Pussy Riotのパフォーマンスは「たかが球蹴り」なんかよりもはるかにシリアスなのかもしれない。だが、「たかが球蹴り」にすべてを賭けている人間たちにしてみれば、あのタイミングでの乱入は心の底からうんざりするようなものだったはずだ。クロアチアのデヤン・ロヴレンが激怒したのは、Pussy Riotのサッカーに対する軽蔑と無理解が度を越していたからに他ならない。
とにかく、こうしてクロアチアはチャンスをひとつ失った。もしかしたら存在したかもしれない別の未来も、永遠に失われた。
その数分後、エンゴロ・カンテを下げてスティーヴン・エンゾンジを投入したフランスは流れをつかみ、ポグバとムバッペのミドルシュートで立て続けに追加点を奪う。4対1。事実上の決着だ。直後、マンジュキッチがウーゴ・ロリスの凡ミスを突いて1点を返すも、フランスの守備は堅牢で、クロアチアの努力が報われる気配はない。後半開始直後まではタバコの火が触れそうになるほど満員だった店内にも、かなり余裕が出てきた。もうすぐW杯が終わる。乱入者、フランスの主人公たち(グリーズマン、ポグバ、そしてムバッペ)の活躍、CL決勝のロリス・カリウスを思い出させる「ロリス」のミス……。僕は前半のペリシッチのゴールを思い出せなくなるくらい満腹になっていた。解説者の山本昌邦と藤田俊哉は、この期に及んで延長戦での交代枠が増えた話、そしてVARの話を何度も繰り返し、そこに安い精神論を交えて試合中に大会を総括していた。レベルの低い解説だった。なにもかもが大味な決勝戦だと思った。
試合終了のホイッスルが鳴って、店内には一斉に歓声と拍手が起こった。僕も友人も拍手をした。ディディエ・デシャンの胴上げ、群れから離れて嬉し涙を流しながらピッチを練り歩くグリーズマン、スマートフォンでセルフィーを撮る選手たちと、思い思いの形で歓喜を表現するフランス。クロアチアは選手とスタッフ全員で円陣を組む。ベタに感動的な光景だった。なんとなくもう一杯飲みたくなってカウンターに向かうと、先刻の女性店員がサーバーの清掃をしていた。
「あの、もうラストオーダー、終わってます、よね」また馬鹿なことを聞いてしまった。
「終わってますね、閉店です。さようなら」彼女は冷たくそう言った。
友人と別れた後、僕は永遠に終わらない決勝戦、永遠にラストオーダーがやってこないHUB、永遠に続く低俗な会話、そして永遠に続くお祭り騒ぎを夢想した。そんなものが存在しないのはわかっていたが、そうせずにはいられなかった。ロシアW杯が終わった。僕にはそれを止めることができなかった。