情緒ほど残酷なものはない。
ほんの2週間前までは、僕たちにとってモスクワとサンクトペテルブルクの次に重要だったサランスクというロシアの地名は、今では随分どうでもいいものになってしまった。試合後の熱によって生まれた「サランスクの奇跡」というWikipediaの項目も、記事としての要件を満たせないまま削除された。一晩の狂騒が生んだコインロッカー・ベイビーのような言葉だ。もちろん、新しい言葉を作ろうとするときに、いちいち避妊じみた検証をしなければいけないというルールはないのだが。
ピースな愛のヴァイブスで……
忘れ去られた「奇跡」の舞台、サランスクのモルドヴィア・アレーナで行われた最後の試合の話をしよう。グループGのパナマ対チュニジアの一戦は、サウジアラビア対エジプトに続く今大会2度目の消化試合だった。両チームともイングランドとベルギーに連敗して試合前の勝ち点はゼロ、決勝トーナメント進出の可能性はすでに絶たれている。
つい勢いで「消化試合」と書いてしまったが、グループの3位と4位を決める試合にも価値があるのがW杯だ、という考え方もある。少なくとも選手たちはサランスクの芝生の上でいきいきとプレーしていた。ひとつひとつのパスにはしっかりと意志が込められていたし、展開も充分に(直前に行われた日本対ポーランドの試合よりはずっと)スピーディだった。
この試合を見ている人は日本にどれくらいいるのだろう。そしてパナマ人やチュニジア人はどんな気持ちでこの試合を見ているのだろう。残念ながら、僕にはパナマ人やチュニジア人の友人がいないので、彼らの平均的な心情を直接教えてもらうことはできない。ただ、3万7168人の観客が集まったモルドヴィア・アレーナの雰囲気から、なんとなくの概要を類推することくらいはできる。
観客たちはみんな単純にフットボールを楽しんでいた。鋭いタックルには歓声を送り、消極的なバックパスにはブーイングを浴びせる。そしてシュートのたびにスタンドがどよめく。次のラウンドへ進む望みを失ったチーム同士の対決としては、いささか盛り上がりすぎではないかと思わなくもない。でも、総体としてはとてもおおらかでいい雰囲気だ。「ピースな愛のヴァイブスでポジティブな感じでお願いしますよ」という窪塚洋介の名言を諳んじてみたくなるくらいに。
33分、ロマン・トーレスからのリターンパスを受けたホセ・ルイス・ロドリゲスのミドルシュートがディフレクションし、幸運な形でパナマが先制する。大歓声と同時に一斉に立ち上がった観客たちの動きは、引きの画で見るとちょっとしたマスゲームのようだった。大会期間中に20歳になったばかりのロドリゲスは言葉にならない喜びを爆発させて芝生に滑り込み、スタンドでは無数のパナマ国旗が揺れる。公式記録はオウンゴールになったが、けちで無粋なジャッジだと思う。これは紛れもなくロドリゲスの代表初ゴールだ。それでなんの問題もないじゃないか。
39分、41分とチュニジアは立て続けに大きなチャンスを迎えるが、ファハルディン・ベンユセフとワフビ・ハズリのシュートは枠を外れた。スタジアムは「パナマ! パナマ!」の大合唱。無関係で中立であるはずのロシア人も、W杯初出場で最弱チームと見なされてきたパナマに肩入れしているのがうかがえる。
チュニジアにとって、前半最大のチャンスはアディショナルタイムに訪れた。自身のシュートが跳ね返ったルーズボールに対して、再度力を込めて右足を振り抜くハズリ。しかしパナマのゴールマウスを守るハイメ・ペネドのファインセーブに遭って得点ならず。失点後に攻勢に出たチュニジアだったが、1対0のまま前半を折り返すことになった。
ハーフタイム、調子っぱずれの応援歌を歌いながら陽気に飛び跳ねるパナマ人サポーターをカメラが捉える。「ピースな愛のヴァイブスでポジティブな感じでお願いしますよ」。僕もそう思う。なにもかもがそうなればいいなと思う。
後半はパナマ人にはつらい展開になった。51分、サイドに流れたハズリからのグラウンダーパスを、中央で反応したベンユセフがゴールに収めてチュニジアが同点に追いつく。W杯初勝利を意識して硬くなったのか、パナマの選手たちは少し集中力を欠いているように見える。彼らにとってW杯初勝利がどれくらい大きな意味を持つのかも僕にはわからないのだが、とにかくそんなふうに最後の45分は過ぎていった。
地力で上回るチュニジアは、ベンユセフとハズリが何度もシュート浴びせる。懸命に守り、勝ち越しの機会を伺うパナマだが、やはり前半ほどのインテンシティーはない。63分にはこぼれ球に反応したエドガル・バルセナスが至近距離で決定機を迎えたものの、アクロバティックなボレーはチュニジアのベテランGKアイメン・マトルティの顔面に弾かれてしまう。結果的に、このチャンスを逸したことがパナマにとっては痛かった。
その数分後、マトルティと同様にこの試合で初めて起用された左サイドバックのウサマ・ハダディがお手本のようなダイアゴナル・ランでパナマのディフェンスラインを深くえぐり、ファーでフリーになっていたハズリにラストパス。ハズリが難なくこれを沈め、ついにチュニジアが試合をひっくり返す。思わずため息が漏れるほどの完璧な崩し方だ。エースとしての仕事を完遂したハズリは、ゴールセレブレーションでハートマークを作った。彼もまたピースな愛のヴァイブスの信奉者なのだろうか?
残りの25分間は、攻めるしかないパナマと受けて立つチュニジアという構図が続いた。最大にして最後の見せ場はアディショナルタイム。パワープレーが功を奏して、ペナルティエリア内でパナマの20番、アニバル・ゴドイの前にボールが落ちてくる。ドが付くほどのフリーだ。しかし左足で叩いたボールは、微妙なアウト回転がかかってゴールから逸れていった。呆然とした表情でその場に立ち尽くすゴドイ。その後、チュニジアは格下相手に全力を尽くして時間を使い切り、サランスクのラストゲームは2対1のまま終了した。
健闘を称え合う両チーム、「TUNISIA」と記された赤いタオルマフラーを掲げながら嬉し涙を流すサポーター、笑顔でカメラに手を振るパナマ人の太っちょの女の子。そしてセンターサークル付近で円陣を組み、最後の芝生に別れを告げるパナマの選手たち。なにもかもがおおむね妥当で公平で月並みで、そして清々しかった。窪塚洋介の願いは、時空を飛び越えてサランスクにまで届いたのだ。ひとまず僕はそう信じることにした。
なぜ、この試合だったのか
パナマ対チュニジアがW杯の醍醐味だなんて言うつもりは毛頭ない。ただ、サランスクでそんな試合があったことを僕が個人的に記憶し、記録しておきたいと思っただけだ。一度は「奇跡」と名付けたできごとさえすぐに忘れられてしまうような情報と感情の渦の中で、なんでもない試合のなんでもない景色を蒸し返す愚鈍な人間が少しくらいはいてもいい。
情緒ほど残酷なものはない。しかし僕らに「ピースな愛のヴァイブス」を与えてくれるのが情緒であることも間違いない。僕はサランスクの最後の芝生のことを、そんな寓話として記憶し続けるだろう。