ももいろクローバーZと演劇。合計で自分のおよそ86%くらいを占めるであろうこの2つの要素のマリアージュに、興味が湧かないワケがない。本来であれば真っ先に飛びついてもいい筈だったミュージカル『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』にしかし、自分は当初食指が動かず、観劇するかどうかも決めかねていた。
もちろんそれは、焼肉とラーメンが好きだからといって同時に出されてもさほど幸せにはならないのと同じ類の話だ。それぞれまったく別のものとして孤高の存在なのだから、わざわざ合わせて純度を薄める必要はない。
『幕が上がる』の話
しかも、この組み合わせには『幕が上がる』というトラウマがある。2015年に上演されたももクロ主演の舞台『幕が上がる』は、ちょっと、というか、めちゃめちゃ消化不良な作品だった。映画版が大変面白かったから警戒しつつも多少期待して観に行ったところ、たいそう残念な思い出となってしまったのだ。
演劇にはいろんなタイプがあり、演出によっても好き嫌いははっきり別れる。それが自分好みではない場合、2時間という長さは正直苦痛でしかない。映画版は“高校演劇を題材に取った青春ドラマ”だったが、演劇版は“高校演劇そのもの”がテーマだった。生の舞台というアドバンテージを活かすための演出だったのだろうが、いかんせん劇中劇そのもののクオリティに限界がある。自分はエンターテイメントの中で何よりも演劇が好きであるがゆえに、ももクロメンバーによる生の演技を楽しむなどというファン目線は消え失せ、純粋に作品としての出来に落胆してしまった。そして「ももクロと演劇は食い合わせが悪い」「やっぱり平田オリザ苦手」「本広克行に演出は無理だったのでは」という思いだけが残った。
あれから3年。今回の作品はミュージカルだという。特にミュージカルが好きというわけではないが、嫌いではない。なにより、歌と踊りは彼女たちが結成以来磨き続けてきたものではないか。思えば『幕が上がる』は、歌と踊りという両翼をもがれた状態での“静かな芝居”だった。ミュージカルなら、彼女たちが得意とするフィールドに近いところでのパフォーマンスになるだろう。さらに、劇中で使われる楽曲はももクロの曲らしい。
であるならば。
『おじクロ』『AMARANTHUS』『白金の夜明け』の話
いやー、泣いたね。思うさま泣いたね。そして、めっちゃペンライト振ったね。控え目に言って最高だったね。
まずもって話が素晴らしい。脚本の鈴木聡は、劇団ラッパ屋の主宰。等身大の涙と笑いで支持を集める俺も大好きな人気作家だ。さらに忘れてはならないのが、2012年のラッパ屋第39回公演『おじクロ』が素晴らしかったこと。
「おじクロ」とはまんま「おじさんクローバーZ」のことで、主宰の鈴木聡本人がももクロにハマってしまったあまり「工場のオヤジたちが、ももクロ好きが高じて、さらにのっぴきならぬ事情も重なって、家族の反対を押し切って全力でももクロのナンバーを踊るライブを企てる」なんて作品を作ってしまったのだ。なにせ、チラシ裏の口上が「オヤジたちのえびぞりジャンプは世界を変えるのか」だよ。当時ももクロは動員こそ増やしていたが紅白出場も果たしていない大ブレイク前夜。にもかかわらず天下のラッパ屋がこんなファン丸出しも甚だしい芝居を打ってしまうなんて公私混同にも程がある。
しかし当時同じくももクロにちょうどハマりたてだった自分(と取締役)は会社帰りに新宿・紀伊国屋ホールに観に行き、「そう! これだよ! ももクロを好きになるということはこういうことなんだよ!」と共感&号泣。翌日劇団に電話して頼み込んで非売品のポスターを送ってもらったものだ。つまり、鈴木聡は信頼のおける生粋のモノノフであり、ファンと同じ目線で長年彼女たちを追ってきた同士であり、どんな作り手より彼女たちをわかっている作家なのである。
だから、ももクロの既存の楽曲を使ったミュージカルなのに、曲のあり方に強引さがない。なんの違和感もなく物語が進む。歌詞や楽曲の背景が、完全にストーリーと調和しているだけでなく、新たな解釈、新しい意味まで生んでいる。これは取りも直さず、楽曲を出発点に物語の着想に至ったということだろう。実際、「embryo」で始まり「個のA、始まりのZ」で幕となるのは、生と死と夢をテーマにした2枚のアルバム『AMARANTHUS』から『白金の夜明け』の流れだ。
ももクロは、上記2枚のアルバムで“生と死について歌うことができる”ことを圧倒的に示してみせた。実はそれ以前にも女性アイドルとしては珍しくももクロには死生観に関する曲は多い。一方、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』でもまた、彼女たちは物語冒頭で命を落としてしまう。そして流れる「embryo」。あ、これ絶対泣くやつだ。続く「WE ARE BORN」で、このミュージカルが傑作であることが早くも確定した。
中盤、物語がアイドルグループの成功物語になったのはご愛嬌。まあ、劇中のグループとはいえサイリウムを振りたくてうずうずしていた観客にとっては魂の浄化になった。ただしそこでも、メンバーの脱退というテーマを真正面から取り上げてみせる。最終的に4人となった彼女たちを見て、これがももクロの物語だったことを我々は思い出した。
ミルクレープのようなパラレルワールドの処理も、深入りしなかったのがかえって良かった。だいたい、パラレルワールドを完璧に手懐けた物語などこの世に1つも存在しない。だって、“無限”なのだから。無限とは、考えるのを放棄しろという意味だ。正解がないのが正解なのだから。
その中で4人が揃う奇跡。かつてももクロは“奇跡の5人”と呼ばれていた。4人とはなったが、やはりももクロは奇跡の4人だったのだ。再び離れ離れになる中、空間を埋め尽くす「HAPPY Re:BIRTHDAY」の密度に息が苦しくなったのは、嗚咽のせいだったか。こんなにも奇跡を願った瞬間を俺は知らない。
百田夏菜子の話
ももクロたちが演じた4人は、どのキャラクターもその人が演じる意味があるものだったが、とりわけ特筆すべきは百田夏菜子の“俳優力”だろう。昨今、演技力もついてきたともっぱらの評判の百田夏菜子だが、正直、映画やドラマで見る夏菜子に贔屓目ではない評価をするのは夏菜子推しの俺には難しい。
ただ、今回の『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』を観て感じたことが一つだけある。それは、舞台女優、とりわけミュージカル女優というものは、夏菜子の力を最大限に引き出す天職なのではないだろうかということだ。もちろん、あくまでベースはももクロに置いたうえで。
舞台上での演技は映像のそれと違い、デフォルメが必要になる。デフォルメといってもオーバーなアクションを意味しているわけでは決してなく、意識の距離感の話。俯瞰の目線といってもいいだろう。目の前にいる相手に同じように話しかけていても、カメラの前でする演技と、観客に囲まれた舞台の上で話すのでは、意識が変わってくる。常々、スタジアムクラスであっても最上段や最後列の客席のファンを意識しているももクロのメンバーであれば、それが自然にできていたとしても不思議はない。
さらにそれがミュージカルとなると、表現に大きな制約が伴ってくる。言葉も削ぎ落とされるため、よりデフォルメも大きくなり、簡単に言えばより“嘘っぽく”なる。ここで活きてきたのが、夏菜子の持つ“嘘のなさ”だった。元来、夏菜子は言葉を巧みに操るタイプではなく、深みのある発言をするタイプでもない。口にする言葉は安直に思えるほどストレートで、思いつきとしか思えない言動も多い。それなのに。ああそれなのに、夏菜子の言葉には絶大な説得力と安心感がある。それは、天性の人たらしっぷりが為せる業としかいいようがなく、それが夏菜子を夏菜子たらしめている最大の魅力なのである。まさにミュージカル女優にうってつけではないか。
『新しい青空へ』の話
もう一つ特筆すべきは、妃海風とシルビア・グラブという2人の実力派女優の存在だ。『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』は、この2人なくしては成り立たなかった。すべてのモノノフがこの2人の存在感に痺れ、ファンになったはずだ。
圧倒的な歌唱というものは、それだけで人を感動させる。序盤にブッ込まれたももクロなしでの「サラバ」は、まるで宝塚を見ているようだった。「HAPPY Re:BIRTHDAY」など、歌いながらあれだけ繊細な演技を見せられたら、今後同曲を聴くたびにあのシーンが頭の中で蘇るだろう。それでいてアドリブも含めコミカルな演技もお手のもの。『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』全編を通して4人と観客を導いてくれた2人には感謝しかない。
ミュージカルうんぬん抜きにしても、純粋にももクロファンとしての喜びと驚きも多かった。「怪盗」は生バンド体制になり新たな命を吹き込まれて以降のバージョンの集大成のような出来だったし、「黒週」は過去すべてのライブを通じても最高と言えるかっこいい黒週だった。人数だけの話とはいえ再び“6人体制のももクロ”が見られたことも大きなサプライズだった。
そして、「普通のお母さんになるのが夢」といって卒業するメンバーに向かって、夏菜子は「それが正解!」と満面の笑みで言う。「それをやりたいって思ったならそれをするのが正解。私達は踊りたいから踊るのが正解!」とも。
「あの子も私達も正解」。
頭では理解していたが心には沁みていなかったこの言葉が、ストンと落ちた。一番大きな驚きは、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』を観たことで、初めて1月21日の幕張メッセ『新しい青空へ』のDVDが観られるようになったことだったのかもしれない。このタイミングで、ようやくあの日のライブが観られるようになるなんて思ってもなかったよ。そしてついに、この週末に鑑賞しました。
ま、めっさ泣いたけどね。