鈴木砂羽は好きでも嫌いでもないが、今回の件はあまりにも可哀想すぎる。規模も重圧も全然違うけど同じ“舞台”“演出”というものに携わった経験を持つ人間として、身もよじれるほどのいたたまれなさを感じてしまった。
自分が学生演劇の延長で舞台の演出をやっていたのはもう15年以上も前になるが、今思い出しても胃が痛くなる。一行一行脚本を読み込み、絵を描き、演出プランを考える。舞台装置、照明、音響その他諸々の舞台美術・舞台効果を決め込む。すべての役者の演技プランを一緒に作っていく。稽古期間のすべてを使い、ギリギリまで役を作り上げていく。役者も人間だ。プラン通りになんかいかない。舞台は役者のものだ。役者の出来は舞台そのものの出来となる。褒めて、否定して、積み上げて、壊して、加えて、削って、手本を見せて、忘れさせて、まったく違うアプローチをさせて、認めて、認めさせて、納得させて、引き上げて、戻して、あらゆる試行錯誤を重ねていい役にしていく。すべての役、すべての場面でこれをやっていく。本番の幕が上がるまで。ゴールはない。
しかも、劇団にせよカンパニーにせよ演劇公演というのは共同作品だ。集団を率いる、集団をまとめるという頭の痛い作業も、いい作品には不可欠となる。特に役者なんて扱いづらい奴らの集まり。男も、女も、ベテランも、経験値の低い奴も、自信家も、打たれ弱い奴も、頭がいい奴も、モチベーションが低い奴も、貧乏人も、失恋した奴も、バイトが忙しい奴も、ひとつにまとめなくてはいけない。
演出家とは、舞台に乗ったものに関して全責任を負う存在だ。最終的に観客の前で披露した芝居そのものについて、どんな言い訳も許されないのが演出家。あのプレッシャー、焦り、もどかしさ、自信喪失、絶望感、孤独感は比べるものがないかわりに、あの安堵感、喜び、多幸感、恍惚感、充足感も他では得られない。
“初”演出というのは、そんな大役を、自ら望んでではあるが演出の素人がやる、ということだ。ただでさえ試行錯誤と焦りと重圧だらけの演出という作業に、“初めての”という前置きが乗った状態。自らすべてを捧げて努力するのはもちろんだが、自分ひとりの力だけでできることでもない。役者たちや周りのスタッフたちの協力、支えがなければとてもじゃないがやってられないのだ。
今回の鈴木砂羽初演出舞台の役者降板騒動は、もともとは鈴木砂羽の演出家としての未熟さ、力量不足が招いたものなのだろう。役者が鈴木砂羽に対する不満を募らせ、素直に言うことを聞けなくなり、積み重なった感情のもつれが最後に最悪の形で爆発してしまった。
ただ、演出家と役者がぶつかるなんてことはよくあること。脚本を演出家が書き直すのもあるあるなら、役者がセリフにケチをつけるのもあるあるだ。役者全員が揃う時間が短いなんてのもあるあるだし、公演直前になって演出家が「稽古時間が足りない! どうすんだ!」とキレるのもあるある。演出家が役者をなじるというのも、もちろん誉められたことではないが、それをパワハラというなら立場が上である演出家からのダメ出しは全部パワハラということになる。
だから、そんなよくある話が降板騒動にまで発展するというのは、演出デビューである鈴木砂羽が役者(と事務所)にナメられた、という話以上でも以下でもない。自分も経験があるが、経験が少ない演出家をナメる役者というのは常に一定数存在する。ものづくりをする上で役割分担と意思決定経路の統一は不可欠であるということを理解できずに、自らが正しいと信じる“我”を通そうとする奴というのは、どこにでもいるものだ。しかし、その行き着く先が降板というのは、ちょっと常軌を逸している。
ワイドショーではコメンテーターが雁首揃えて「土下座の定義」について真顔で議論している。そんなことは心底どうでもいい。パワハラ云々も受け取る側の匙加減だ。行き過ぎかどうかは、当事者しか決められない。客観的事実としてあるのは、演出と役者の修復不可能な軋轢と、役者が降板したという現実だ。今回、鈴木砂羽は演出家としては合格点とはいい難いデビューとなった。しかし、それでもなんとか初日の幕を開けた。舞台に携わる者として、初日を迎えられないことほど情けなくて恥ずかしいものはなく、絶対にあってはならないこと。それを回避した経験は、今後の彼女の大きな糧となるだろう。代役を引き受けた役者にも拍手を贈りたい。
一方、本番二日前に舞台を降板した二人の役者は、どんな理由があろうとも、どんなに自己を正当化しようとも、許されるべきではない。自分が芝居をやっていたころ、役者は病気や体調不良が理由であっても一度舞台に穴を開けたら数年は仕事は来ないと言われていた。いわんや、自己都合の降板なんて、考えられないし考えたこともない。自分の尊敬する脚本家を蔑ろにされ、自分のプライドをズタズタにされたからといって、多くの人間が関わり多くの時間をかけて準備し多くの客が待っている作品に対し自分しかできないやり方で取り返しのつかないダメージを与えて復讐するなんてことが許されていいわけがない。こんなことを書かずとも今後この二人を起用しようと思う人間はいないと思うが、元演劇人、現演劇ファンとして、怒りを通り越してこんなことをする人間がいるんだという薄ら寒さを感じた。