竹宮ゆゆこの話をすると長くなる。もちろんなるべく手短に、かつ穏便にすませたい。それでもぼちぼち長くなるだろう。僕は竹宮ゆゆこのオタクだから。
あらかじめ結論から言っておくと、僕はこの小説『あなたはここで、息ができるの?』(新潮社)を上手に褒めることができない。好きな作家の初めてのハードカバーだし、褒めたいのは山々なんだけど、こういうときに自分の気持ちに嘘をついてもいいことはあまりない。
上手に褒めることができないのには理由がある。でもその話をすると無限に長くなってしまう(僕がどれだけ無能なのかとか、そういう話になる)から、とりあえず要点だけ書くことにする。つまるところ僕としては、ワンアイデアで勝負をかけるようなものではなく、もう少しじっくりと人間の生活に寄り添ったタイプの作品が読みたかったのだ。まあ、すべて個人的な欲望だから、なにを言っても詮ないことではあるんだけど。
竹宮ゆゆこの食べものの話
いいところもたくさんある。たとえばドラゴンボールの喩え話のくだり。現代の20歳の女子大生がドラゴンボールを読んでいるかどうかはわからないけど、ギャグの雑さがいかにも竹宮ゆゆこ的で素晴らしい。あと、グロテスクな描写をポップに読ませる文章のグルーヴ感。これも素晴らしい。初期の舞城王太郎のようなヴァイブスの高さでゴリゴリと攻めてくる。でも、あえてドラゴンボールに喩えるなら、筋肉を増やしすぎたトランクス的な趣がないでもない。
基本的に、この作者は当たり前の話を楽しく読ませるのがうまい。とみに、食べものが絡むとその特長はさらに輝きを増す。『とらドラ!』の高須竜児の料理、スピンオフの「ラーメン食いたい透明人間」、『ゴールデンタイム』1巻のゆで卵、『知らない映画のサントラを聴く』のさきいかやスパゲッティ、『あしたはひとりにしてくれ』のおやつにぼし、『おまえのすべてが燃え上がる』のステーキ、『応えろ生きてる星』のフライドポテトで食べるパフェ、あるいはおうちデートの手料理とワイン、あるいは……。
『あなたはここで、息ができるの?』にも印象的な食べものがいくつか登場する。トムヤムクンヌードル、シロップをたっぷりと入れたアイスカフェオレ、焦がしてしまった鍋焼きうどん、人気店のラーメン。それらは単に食べたり飲んだりするために存在するのではなく、それぞれが符牒としての役割を担っている。いや、この作品に関しては堂々とタネを明かしているので、符牒という表現は適切ではないかもしれない。というか、『あなたはここで、息ができるの?』は全編がタネ明かしみたいな小説だ。結末は最初から決まっていて、ネタバレもなにもない。それ自体は決して悪いことではないけど、しかし、やはりいろんなことが引っかかる。
果たしてこれが「絶対、最強の恋愛小説」でいいんだろうか? なにか違う方法があったのではないか? 単純に、僕がオタク特有の無益なナイーブさを引きずっているだけなのかな?
「文学≒死」みたいな文学観?
ライトノベルからライト文芸、一般文芸と「文学的なもの」に接近するにつれて、竹宮ゆゆこはやたらと人間の死について書くようになった。『砕け散るところを見せてあげる』も『おまえのすべてが燃え上がる』も、言及する必要があるとは思えないようなところにまで踏み込んで、生きるや死ぬやの話をしている。前作の『応えろ生きてる星』は誰も死なない話で安心していたのに、今作では死そのものが「ドン!」と中心に据えられている。なんだかバックラッシュのようだ。
きっと作家として避けては通れないテーマなんだろう。ただ、冗談抜きで100万回はコスられた大ネタをさらにコスろうとするなら、もう少し粘りというか、真に迫るようなところを見せてほしかった。親友の死が作品全体に適切な重力をもたらしていた『知らない映画のサントラを聴く』に比べて、『あなたはここで、息ができるの?』の死はどうにも実感が乏しく、終幕まで妙にふわふわした印象を与える。それが狙い通りなのか、失敗なのかは僕にはわからない。
わからないという話をするなら、そもそもなぜ新潮社から出すハードカバーの1冊目に、ほとんどアイデア一発勝負のような中編小説を選んだのかも正直よくわからない。たしかに文章表現はこれまでになく野心的だし、語り手の脳みそがこぼれ落ちているのに陰惨じゃないのは凄いと思うし、なにもかもそのために用意された仕掛けだと考えれば納得はできるけど……。
『とらドラ!』の10年後のオタクたち
たとえ『あなたはここで、息ができるの?』が期待していたような作品じゃなくても、僕は今後も竹宮ゆゆこガチャを回し続けるだろう。いつか直木賞なんかを受賞してくれたら嬉しいし、直木賞じゃなくても嬉しい。別に賞なんてなくても、新作を定期的に出してくれるだけでいいのだ。僕はただのオタクだから。
もしまた竹宮ゆゆこの話をする機会があれば、そのときはもっと有意義な話――川嶋亜美ちゃんの崇高さについての話とか――をしたい。それがいたずらに過去を美化したありがちな懐古趣味だったとしても、しぶとく生きていくためにはピースでポジティブなサムシングが必要なのだ。人生がそういうふうにできていることを、『とらドラ!』になにかを食らったオタクたちは今さら理解しはじめている。