いしいひさいちの新作漫画『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』が絶賛の嵐を巻き起こし、8月に発売開始されてから約1か月で第3版が決定した。そう聞いて、「自分は漫画好きを自負しているが、『ROCA』なんて書店で見たことも聞いたこともない」と首をひねった人もいることだろう。それもそのはず。『ROCA』は自費出版による単行本で、入手するには、いしいの公式サイトなどからわざわざ通販を申し込まないといけないのだ。
大御所作家が令和になぜそんな面倒なやり方を……と思わなくもないが、いしいといえば関西大学漫画同好会の出身で、同人文化とは馴染みが深く、近年はオリジナル作品限定の同人誌即売会「コミティア」にも出品している。『ROCA』を自費出版にしたのは、きっと自然な選択だったのだろう。
いしいひさいち流の萌え4コマ!?
『ROCA』はいしいによるストーリー漫画だ。ポルトガルの国民歌謡「ファド」に魅せられたヒロイン・吉川ロカが歌手という夢を叶えるまでが瑞々しく描かれている。4コマ形式を基本にしつつ、時にはコマを4つ以外に割った形式も混じえ、ごく短いエピソードの連なりによってひとつのドラマを紡いでいくスタイルは、いわゆる“萌え4コマ”で有名な漫画雑誌『まんがタイムきらら』作品の構成を彷彿させる。
※ちなみにいしいは、デビュー40周年記念ムック『いしいひさいち 仁義なきお笑い』(河出書房新社)掲載のロングインタビューで、「良くも悪くも4コマの最新形」「こうした新たな動きのあることはその分野の生きている証としてすばらしい」と萌え4コマに肯定的な発言をしている。
『ROCA』を読んで『まんがタイムきらら』を思い出す理由は、もうひとつある。それは吉川ロカと柴島美乃の関係性だ。歌以外は「方向、スポーツ、勉強、オトコ」の全てがオンチなロカと、その同級生(何度も留年しているので実際は年上)の不良娘・美乃。何かと危なっかしいロカに対して、美乃は辛辣すぎるツッコミを入れながらも、なんだか危なげな稼業をしているらしき実家まで駆り出して親友の夢を応援する。デビューが決まったロカに美乃が「おまえはオレのシマだ」と彼女流の言葉選びでエールを送るのは、本作の名シーンのひとつ。凸凹コンビの結びつきには、百合のテイストすら感じられる。
「都合のよいお話」に混ざる一点の“ままならなさ”
もともと吉川ロカの物語は、朝日新聞『ののちゃん』の連載内連載として始まった。歌手を目指すキクチ食堂の新人バイト・吉川ロカはゆっくりと、しかし着実にステップアップしていき、やがてデビューを果たす。しかし、この一連のエピソードは不評だったらしい。いしいはシリーズが終了した当時、「朝日新聞のコアな読者にはたいへん評判がわるかった」「シンプルなハッピーエンドを描こうとしたのですが、確信犯とはいえ場所をまちがっていました」とコメントしていたという。
とはいえ、「新聞ではやりにくかった部分」を埋めていった結果、『ROCA』という傑作単行本が生まれたならば結果オーライと言うべきか。ただ、『ROCA』は「シンプルなハッピーエンド」とは素直に言いづらい物語に仕上がっている。
いしい自身は「これは、ポルトガルの国民歌謡『ファド』の歌手をめざすどうでもよい女の子がどうでもよからざる能力を見出されて花開く、というだけの都合のよいお話です」と単行文の序文につづっている。このメッセージは、決して間違いではない。たしかに『ROCA』とはそのような物語だ。しかし、作品を読み終えてみると、「なんと意地悪なメッセージなんだ」とどこか憎たらしくも感じてしまう。
なぜなら、『ROCA』とは「都合のよいお話」に混ざる一点の“ままならなさ”にこそスポットライトを当てた物語だからだ。
夢へと進む道のりの中で、ロカはいくつかの別れを経験する。そして、ついにブレイクの芽が見えたとき、美乃との関係もまた変化する。芸能界を生きるには不器用すぎて、マネージャーから「まったく『ウソをつかない』のもどうかと思うんだ」とお説教をくらうほど無垢だったロカは、歌手として成功するために“あるウソ”をつく。その切ない選択には読者としては胸を打たれると同時に、「あのポケーッとした少女がそうまでして歌手になりたいのか」と彼女の秘めたる野心にゾクゾクさせられもするのだった。
それからロカと美乃がどうなったかは、わからない。夢の跡とも言うべき光景を描いたラストのコマが読者の想像をかき立てる。
ところで「泣ける4コマ」といえば、業田良家『自虐の詩』が有名だが、こちらもまた女性ふたりの友情を大きなテーマにした作品だ。過去にいしいは注目する漫画家のひとりとして業田良家を挙げたこともあり、「『ROCA』執筆中に『自虐の詩』がふと頭によぎった瞬間もあったのだろうか?」と妄想がふくらむ。ただ、『自虐の詩』が“失わなかった物語”だとすれば、『ROCA』は“失った物語”。読後にはビターな余韻が残る。
『自虐の詩』はより正確に表現するならば、“失ったと思っていたものをまた拾い上げる物語”だ。幸江と熊本さんだって、奇跡の再会を果たすことができた。ならば、ロカと美乃も一生はなればなれのままとは限らないじゃないか。
ロカが歌うポルトガルの国民民謡「ファド」とは、宿命や運命を表す言葉だ。いずれ運命がふたりを再び引き合わせる――。いち読者として、そう祈りを込めて。