私刑が野蛮な行為だと思うのは、当事者じゃないからかもしれない。
- 子どもが大きくなって生意気になってきた
- 姉弟喧嘩の頻度も増えてきた
- ゲンコツすると妻に怒られる
ザックリいうと、上記のような相談を編集部員原田にしてみたところ、R-18指定の仏ホラー『屋敷女』なるものを見ろとの回答を得たこともあり、さっそく見てみることにした。
世界は私刑で溢れている
僕が初めて生と死は隣り合わせなのだと感じたのは、学生時代にアメリカに旅行に行ったときのことだ。当時、僕の妹①がアメリカ、ロサンゼルスにある大学で学問を学んでいたこと、それに加えて妹②も海外留学を希望していたこともあり、せっかくの機会だし家族で妹①が住む場所に行ってみようという話になったことがきっかけだ。
妹①は成人祝いに祖母から車を買ってもらっていたこともあり、現地移動は基本的に妹①の車で行われた。妹①は久々に家族に会ったことで張り切っていたのだろう。ロサンゼルスのいろんな場所に連れて行ってくれた。記憶に残っているのはやはりハリウッドのアレやらレイカーズの本拠地ステイプルズセンターやらなにやら、当時観光に興味がなかった僕でも「おぉ!」と思う場所を訪れることができた。
さて、話は脱線しかけたが、僕は世界を知らないなと思ったのは、妹が運転する車がスラム街に入ってしまったときのことだ。都会だなあなんて眺めていた風景の雰囲気がなんか変わったなんて呑気に思っていたら妹はこう発言した。
-まずい、スラム街に入ってしまった
それを聞いた瞬間こそどれくらいまずいことなのか、僕にはほとんど理解できなかったが、確かに周囲の民家らしきものの窓にはすべて鉄格子が施されていた。それでも呑気に構えていた僕もちょっとドキリとするシーンがあったのだ。窓から拳銃を構えている男がいた。ビックリしすぎてケツが浮いた。妹は顔をこわばらせつつも流れるようにUターンしてこれまで来た道を戻り始めた。
落ち着きを取り戻した頃に聞いた話によると、その近辺はそうとうに治安が悪い場所だったらしい。判断を間違っていたら身ぐるみ剥がされるくらいじゃ済まなかったかもしれないなと思うと、無知とは恐ろしいものだと思わざるをえなかった。
日本にいるとなんだかんだいって平和だ。しかし、世界は日本ほど平和な毎日が送れているわけではないのだ。そう思うと、帰国したあとの僕はインターネットを漁る時間が日に日に長くなっていった。世界の危険といわれる場所ではどんなことが日々起こっているのだろうかと。そんなところに興味を持つようになっていった。
そこでわかったことは、世界は私刑に溢れているということだった。
教育的私刑と報復的私刑
ときは21世紀、日本で万引きをして見つかったとする。そのとき店側がとり得る行動は、警察24時あたりを見ていると主に2パターンだ。
- 警察を呼ぶ
- 二度としないことを約束させて1度は許す
しかし、海外ではそんな生易しいことでは済まないことも多い。僕が勝手にそう名付けている教育的私刑が多めなのはブラジルだ。…といっても経済的に豊かではない地方ではあると思うが、ブラジルでは教育的私刑が多めな印象が強い。
例え物を盗んだ人物が大人であれ子どもであれ、二度とそんな気を起こさせないように手のひらを角材などで叩く。一発ではない。何発もだ。もちろん大人も子どもも泣き叫ぶ。一発でも尋常じゃないほどの痛さであることに違いないだろう。それでもお構いなしに叩き続ける。警察を呼ぶより私刑に処してしまったほうが効果的な事情があるからなのかもしれない。
これがもし、ギャング的なものに関わるものならもっとヤバい。指先を切り落とされる、手のひらを拳銃で撃たれる程度で済めばラッキー、虫の居所が悪ければ頭をズドンだ。ちょっとした気の迷いからくる過ちが自分の人生を終わらせることになりかねない。
また、アフリカの貧困国だと「万引き=見つかれば死」というイメージがすこぶる強い。そういうものばかり目にしていることもあってそう思い込みすぎているだけかもしれないが、報復的私刑に処されている印象が強い。物を盗んだ疑いがかけられると、被疑者であってもほぼ死から逃れることが難しい状況に陥る。
周囲にいる民衆も一緒になって被疑者を一方的にいたぶるからだ。被疑者は民衆に暴行を受け、バイクで轢かれ、投石(それも驚くほど大きい)によって意識を失いかけ、ガソリンなどをかけられ最終的に火をつけられて放置される。運が良ければ死、運悪く助かってしまったら、死ぬまで重度の全身火傷で苦しまなければならない。どちらに転んでも最悪だ。
民衆による私刑に遭う前に警察が来ればラッキーくらいの印象だ。
日本人が我慢強いのか、比較的貧困な国の人々が短気すぎるのか未だ僕にはわからない。
復讐からはなにも生まれないというのは本当か?
とても長くなってしまったがこれまでは前置き、そしてここからが本題。原田に薦められた『屋敷女』はおそらくは復讐の物語。日本では昨今死刑廃止が叫ばれているが、死刑廃止論者だった弁護士が、配偶者を刺殺されて死刑賛成派となった話はあまりにも有名だ。
漫画やアニメ、ドラマなんかでは「復讐からはなにも生まれない」という決まり文句をよく目にするが、上記のような例を見ると、本当にそうか? という疑いが生まれてくる。
この映画は妊婦が起こした交通事故のシーンから始まる。自身が起こした事故が原因で夫をなくした主人公らしき人物のサラ。それから4ヶ月、出産予定日を翌日に控え、一人家で産気づくその時を待つサラの身に降り掛かった災厄が描かれている。
僕は特に公言しているわけではないが、どんな動画が好きかと尋ねられるとグロ系と回答するようにしている。諸外国における私刑動画について見ているうちに、その守備範囲がどんどん広がっていき、およそ普通の感覚を持つ人にはあまり理解してもらえなくなったため、尋ねられればそう応える程度のスタンスを保っているが、生を諦めた者の表情だったり、苦しむ表情というのはなんとも形容しがたい”救われなさ”を感じるものだ。日本語的にいうと「神も仏もない」的な何かだ。
この映画における暴力描写は限りなく僕が普段、夜な夜な目にしている動画内で起きる行為のそれに近い。痛々しき、鬼気迫る中にあって、それでいて淡々と事に及ぶ様はとてもリアルだ。
さきほど僕は妊婦サラのことについて”主人公らしき”と表現したのは、この映画はサラ目線で話が進んでいくものの、「なぜ?」を純粋に追い求めていくと、行き着く先はサラを襲う「謎の女」に向かうからだ。むしろこの謎の女が主人公なのではないかとすら思える。なぜ女は執拗にサラに執着しているのかがわかると、なんとなく味方をしたくなってくるのは僕が「復讐からはなにも生まれない」ことはないと思っているからだろう。
第三者目線で見ると、おそらく「復讐からはなにも生まれない」は正解だ。端から見ていると復讐するほうもされるほうも、どちらも救われない結末を迎えることがほとんどだと思う。しかし、当事者視点で見るとそれは不正解だ。復讐が成功すれば当人には達成感、満足感が生まれる。復讐する側にとって復讐される側が今どんな事情を抱えていようが関係ないし、その逆も然り。どの立場にあるかでその正解はきっと違うのだ。
ただし、かなりリアルな描写に感心こそするものの、やはりそこは映画、人がホラー映画を見て恐怖するのはサウンドによるところがかなり強い。ホラー映画にとって恐怖をテコ入れするためにサウンドというスパイスが必須であるという事情は汲むべきものだと思うが、生と死の狭間をより本物の恐怖として描くのであれば、この効果がないほうがより身近で、生温かいリアルさを感じることができたのかなと思う。
映画では悲劇・惨劇が起きた理由を、物語を見ることでわかるものになっているが、現実はもっと複雑で、それでいてむしろ理由なんてないことも多い。現実は映画より奇なりだ。現実は本当に救われないからね。いや、現実と比べるのは野暮ってやつですがね。
とにかくまあ、生々しい怖さに興味がある人にとって、『屋敷女』は自分にそれを見届ける耐性があるかどうか、ある程度自分自身を見極めることのできる作品だと思います。