HADO 2018 CLIMAX SEASON閉幕

グッド・フィーリング、バッド・エンディング――ホアン・シー『台北暮色』

2、3年ほど前から、日本の映画ファンの間で台湾ニューシネマがじんわりと流行っている。というよりも、エドワード・ヤンの映画が流行っている。彼の監督作品の素晴らしさについては、いまさら強調するまでもない。リバイバル上映&ソフト化された『牯嶺街少年殺人事件』について、蓮實重彦御大がいみじくもこんなコメントを寄稿している。

“問答は無用だ。だまって映画館にかけつけ、この真の傑作に打ちのめされるがよい。”

『台北暮色』(原題『ジョニーは行方不明』)の日本での公開にあたっては、そういった状況的な力がいくらか作用したのではないか、と考えられる。巨匠ホウ・シャオシェンの弟子筋にあたるホアン・シーの初監督作品で、しかも「現代の台北を描いたのは、エドワード・ヤン以来だ」という師匠のお墨付き。僕は「期待の地平」という懐かしい文学理論を思い出す。この映画を見る観客の多くは、エドワード・ヤンやホウ・シャオシェンの痕跡をスクリーンの中に認めようとするに違いない。

とはいえ「現代的にリブートされた台湾ニューシネマ」という意気込みで『台北暮色』を鑑賞すると、やや肩すかしを食うかもしれない。「海の向こうの、有望な若手監督の映画がたまたま日本にやってきた」くらいのスタンスがちょうどいいのではないだろうか。20世紀の映画史に残る『牯嶺街少年殺人事件』や『悲情城市』のような質量をデビュー作に求めること自体、そもそも無理があるのだから。

グッド・フィーリング

主役の1人、シューを演じるリマ・ジタンの健康的な美貌が目を引く。顔立ちからスタイル、服の趣味に至るまで、過去の台湾ニューシネマのヒロイン像とはかけ離れた、いかにも現代的な美人だ。本格的な演技経験はほとんどないとのことだが、当て書きとメソッド的な取り組みの成果によるものか、台北の気候のような熱と湿気を帯びたナチュラルな芝居で観客を魅了する。

フォン役のクー・ユールンの、とぼけたニュアンスと誠実さを併せ持つ2枚目半な佇まいにも好感を抱いた。脇役にもホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンの監督作品に出演してきたチャン・クォチュー、トゥアン・ジュンハオといった名優たちを配置しており、彼らの老練な芝居と過不足ない存在感が、物憂げな表情とちょっとした重力を映画全体に補足している。

また、古さと新しさの同居した台北の街を風景画のように切り取った画作りも素晴らしい。とみに引きで捉えた橋や高架の画は、建造物に対するフェティッシュな愛情をも感じさせる。ある都市を美しいと錯視させることに成功しているだけでも、『台北暮色』はひとまず一見の価値のある映画に仕上がっている、と言うことができるのではないだろうか。

どっちつかずの、ふわふわしたストーリー

俳優はいい。画作りも素晴らしい。充分に佳作の域に達しているこの映画にあえて不満を述べるなら、充実した画面の力に対して脚本がやや弱い、という部分だろう。

『台北暮色』について、「都市生活者の孤独」とか「あらかじめ失われた物語」とか、それらしいことを言うのはたやすい。「たやすい」とはつまり、決して間違っているわけではないが、同時にほとんどなにも言っていないのと変わらない、ということでもある。1本の映画を見て「都市生活者の孤独が見事に表現されていますね」と評価するだけなら、ペッパーくんにも同じくらいのことはできる(できないかもしれない)。

『台北暮色』の物語は、エモーショナルなわかりやすさを入念に回避しながら進んでいく。3人の登場人物に振り分けられ、断片化された挿話のひとつひとつ――年季もののマイルドセブンを拾ったり、逃げた鳥を追いかけたり、水たまりを自転車でなぞったり……――は、一見して意味の希薄な、どこかポエティックなものばかりだ。このままなにも起こらずに終わるんじゃないか(だとしたら相当面白いな)、という予感がピークに達した中盤から終盤にかけて、映画はやや性急に転がりはじめる。それまでのゆったりとしたテンポを否定する早回しまで使って、唐突になにかを思い出したかのように。

ここで語られる登場人物の秘密が妙にあっけなく通俗的で、正直少し面食らった。なるほど、と腑に落ちるものではあるのだが、しかしそれ以上に安直な印象は拭えない。シューにしてもフォンにしても、あそこまで引っ張って、深刻めかした調子で過去を打ち明ける必要はなかったのではないか。セブンイレブンの前で2人が語り合うカットが際立って美しいものだけに、余計にそう感じてしまったのかもしれない。

シューとフォンの人物像が説明される一方で、注意欠陥的な症状を抱えて生きる青年・リー(ホアン・ユエン)の挿話は、最後まで断片的な情報の提示にとどまっている。彼の孤独は謎めいたまま閉じ切っており、ごくささやかな隘路すら用意されていない。この酷薄な不均衡を好ましいと思うか否かは人それぞれだろうが、個人的にはあまり感心するものではなかった。

象徴的に繰り返されるフォンの車のエンスト、あるいは「ジョニーへの間違い電話」についても、フックとして十全に機能しているとは言いがたい。それでいて、胸に迫るほど圧倒的なリアルさや不気味さがあるでもない。もちろん、このどっちつかずのシュールな浮遊感を愛おしいと思う向きもいるだろう。僕も映画の最後のカットが暗転する瞬間までは、わりあい好意的に見ることができていた。この映画の、正確にはこの映画の日本公開版の最大の瑕疵は、本編終了後のエンディングにある。

バッド・エンディング

日本公開版のために新たに用意された、Nulbarichの「Silent Wonderland」というエンディング曲。本当に心苦しいのだが、この曲があまりにも『台北暮色』に合っていない。なぜエンディングとして採用したのか、まったくもって意味不明だ。いや、日本でのマーケティングに向けて用意されたものということくらいはわかるのだが、映画にとってもミュージシャンにとっても、完全に不幸な結果をもたらしていると断言できる。

Nulbarichに対しては恨みも憎しみもネガティブな印象も持っていないし、曲が悪いというつもりも毛頭ないが、エンドロールで「Silent Wonderland」が流れたときは心底うんざりした。ひとつの映画の余韻を破壊するということにかけて、ここまでひどい例を近年味わったことがない。どのセクションの人間がこのエンディングを提案し、どんな経緯で実現したのかわからないが、いくらなんでも、かなりおざなりで余計なサービスだと指摘せずにはいられない。

もし『台北暮色』が「Silent Wonderland」によってエンディングを迎えるような映画だったとしたら、禁欲的に構築されてきた劇中のドラマはいったいなんだったのか……。とにかく、わりに作家性が強いカチっとしたタイプの作品に、資本のスメル漂うデコレーションをまぶすのはやめてほしい。お金儲けをするにしても、もう少しマシなやり方があると思いますよ。


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