ヴィッセル神戸が年俸32億5000万円(2500万ユーロ)でイニエスタを獲得するかも、というニュースが話題です。
実現するかはともかく、三木谷さんのお金の使い方には驚かされます。移籍金が発生しないとはいえ、32億ですよ。鹿島時代のジーコの年俸が1億8000万円ですから、32億あればこんなチームも組めてしまいます。
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ジーコ ジーコ
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藤ヶ谷
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ベンチ入りメンバー:藤ヶ谷、ジーコ、ジーコ、ジーコ、ジーコ、ジーコ、ジーコ
ジーコが15人で27億、藤ヶ谷が2人で1億としても、まだ4億円以上残ります。つまり、ベンチ外で2人のジーコを飼い殺せてしまうわけですね。
イニエスタはいまだにバルセロナとスペイン代表で違いを生み出せる選手です。もし本当にヴィッセル神戸に入団したとしたら、これまでにJリーグでプレーした外国人選手の中でも飛び抜けた存在になるでしょう。
とはいえ、ネームバリューや年俸に見合った活躍をするとは限らないのがサッカー選手。
現在もJリーグには元ドイツ代表のポドルスキ(ヴィッセル神戸)、元ブラジル代表のジョー(名古屋グランパス)などが在籍していますが、チーム事情などもあり、そのポテンシャルを発揮できているかといえば微妙なところ。そんなわけで、Jリーグにやってきた大物助っ人外国人たちを成功例と失敗例にわけて振り返ってみたいと思います。
成功例
ジーコ(鹿島アントラーズ・ブラジル)
1991年に入団 Jリーグ通算23試合14得点
やはりまずはジーコでしょう。前身の住友金属時代に日本にやってきて、鹿島アントラーズを強豪に育てあげました。初期のJリーグをおおいに盛り上げた功労者であり、日本にサッカー文化を根付かせた人物のひとりだと言えます。日本代表をはじめ、監督としてはやや苦戦していますが、それで彼の残した功績が消えるわけではありません。
ラモン・ディアス(横浜マリノス・アルゼンチン)
1993年に入団 Jリーグ通算75試合52得点
強烈な左足を武器にリーベルプレート、インテル、モナコと世界を股にかけて活躍したJリーグ初代得点王。Jリーグカレー世代の人にとっては、同じアルゼンチン出身のメディナベージョ、ビスコンティと合わせて「強いマリノス」の象徴だったはず。実力に比して干され気味だった代表でも22試合10得点の成績を残しています。
ギド・ブッフバルト(浦和レッズ・ドイツ)
1994年に入団 Jリーグ通算127試合11得点
屈強なフィジカルと闘志あふれるプレーで、「Jリーグのお荷物」と呼ばれていたレッズを闘える集団に変えたセンターバック。1990年のW杯決勝ではマラドーナを完封し、旧西ドイツを3度目の優勝に導いています。また、2006年にはレッズの監督として悲願のJリーグ初優勝を成し遂げており、チームにとって文句なしのレジェンドです。
ドラガン・ストイコビッチ(名古屋グランパス・旧ユーゴスラビア)
1994年に入団 Jリーグ通算184試合57得点
「ピクシー」の愛称で親しまれた旧ユーゴを代表するテクニシャン。雨中のリフティング・ドリブルや主審へのカード提示、さらに監督時代の「革靴ロングシュート」など、印象的なエピソードに事欠きません。Jリーグで最優秀選手(1995年)と最優秀監督(2010年)の双方を受賞した史上初の人物であり、納豆と鮎をこよなく愛する親日家でもあることから、日本代表監督への就任もたびたび噂されています。
ドゥンガ(ジュビロ磐田・ブラジル)
1995年に入団 Jリーグ通算99試合16得点
W杯2大会(1994、1998)でブラジル代表のキャプテンを努め、それぞれ優勝、準優勝という結果を残した名ボランチ・ドゥンガは、味方に激を飛ばしまくる姿から「鬼軍曹」と呼ばれました。そのファイティングスピリットはもちろん、技術に裏打ちされた冷静なプレーでジュビロ黄金期の礎を築き、またブラジル代表監督にも2度就任しました。
セザール・サンパイオ(横浜フリューゲルス他・ブラジル)
1995年に入団 Jリーグ通算197試合21得点
1998年のW杯でドゥンガとボランチのコンビを組み、3得点の活躍で決勝進出に貢献したサンパイオ。セレソン(ブラジル代表)のボランチがジュビロとフリューゲルスというのは、今ではなかなか考えられないことです。そのフリューゲルス愛は非常に強く、チーム消滅の煽りをうけてブラジルに帰国(のちにJリーグに復帰)することになります。
サルヴァトーレ・スキラッチ(ジュビロ磐田・イタリア)
1994年に入団 Jリーグ通算78試合56得点
地元開催の1990年W杯で6得点をあげ、得点王に輝いたスキラッチ。「トト(救世主)」の愛称で知られる彼も、現役の晩年にジュビロでプレーして圧倒的な得点力を見せつけています。現役時代はゴン中山に「ハゲラッチ」と呼ばれるほど髪が薄かったのに、引退後はフサフサの長髪になっていたことも一部で話題になりました。
レオナルド(鹿島アントラーズ・ブラジル)
1994年に入団 Jリーグ49試合30得点
ジーコの誘いに乗ってアントラーズやってきた貴公子・レオナルドのハイライトは、やはり1995年のマリノス戦で見せた「Jリーグ史上最高のゴール」でしょう。これはもう「動画を見てください」としか言いようがないですね。そのルックスもあって非常に人気の高い選手でした。インテルの監督として長友佑都を獲得した人物でもあります。
失敗例
ゲーリー・リネカー(名古屋グランパス・イングランド)
1993年に入団 Jリーグ18試合4得点
1986年のW杯得点王、イングランド一部(現プレミアリーグ)で3度の得点王という実績を引っさげ、鳴り物入りでグランパスに入団したリネカー。年俸はリーグ最高の3億円で、間違いなくJ開幕当時の目玉選手でしたが、成績は「残念」の一言。引退後は名物コメンテーターとなり、古巣のレスターが優勝したときはパンツ一丁でテレビに出演しました。
ベベット(鹿島アントラーズ・ブラジル)
2000年に入団 Jリーグ通算8試合1得点
ジーコやレオナルド、アルシンドなど「当たり」のイメージが強いアントラーズのブラジル人選手ですが、ベベットは数少ない失敗例です。W杯優勝経験もあり、南米年間最優秀選手も獲得した名手ですが、来日したときは完全にキャリアの下り坂。チームにもリーグにもまったくフィットできないまま、わずか4ヶ月で退団してしまいました。
イルハン・マンスズ(ヴィッセル神戸・トルコ)
2004年に入団 Jリーグ通算3試合0得点
覚えていますか? 2002年の日韓W杯で話題になったあのイケメン選手のことを……。当時、ベッカムなみに日本のメディアに取り上げられまくっていたイルハンですが、明らかに過剰な待遇(移籍金5億円、年俸3億円)でヴィッセルに入団し、怪我のためまともにプレーできないまま退団してしまいました。現役引退後はフィギュアスケートにチャレンジするなど、なんとも不思議なキャリアを歩んでいます。
パウロ・ワンチョペ(FC東京・コスタリカ)
2007年に入団 Jリーグ通算12試合2得点
代表通算75試合45得点、プレミアリーグでも50得点の実績を持つ「コスタリカの怪人」。当然エースストライカーの期待を受けてFC東京に入団したものの、古傷の影響でトップフォームからは程遠く、原博実監督から戦力外通告をうけて半年ほどで退団。その後コスタリカ代表の監督に就任しますが、警備員と乱闘騒ぎを起こして辞任しています。
フレドリック・ユングベリ(清水エスパルス・スウェーデン)
2011年に入団 Jリーグ通算8試合0得点
イブラヒモビッチやラーションと並ぶスウェーデンの英雄、ユングベリのエスパルスへの加入は大きな話題を呼びました。やはり全盛期のアーセナルでのプレーが日本のファンにとっても印象的だったのでしょう。しかし、日本では記録も記憶も残せないまま、怪我の影響で退団。余談ですが、2007年からカルバン・クラインの下着モデルを努めており「ゲイに人気のサッカー選手」としても有名です。
ディエゴ・フォルラン(セレッソ大阪・ウルグアイ)
2014年に入団 Jリーグ通算42試合17得点
「史上最攻」を掲げた2014年のセレッソ大阪に入団したフォルランの年俸は6億円。チームの目標はもちろん優勝でしたが、主力の移籍や怪我が相次ぎ、結果はまさかのJ2降格。W杯で大活躍したフォルランや元ドイツ代表のカカウなど、大物助っ人を擁しての降格に「史上最攻(笑)」といった揶揄がネットを大いに賑わせることになりました。
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やはり現代に近付くにつれて失敗例が増えてきていますね。リーグのレベルが向上して、キャリアの終盤を迎えた選手にとっては厳しい環境になったということが大きな要因かと思います。ちなみに、バルセロナでプレーしてヴィッセル神戸に入団した選手としては、ミカエル・ラウドルップという先例(正確にはバルセロナ→レアル・マドリード→ヴィッセル神戸)がありますが、皇帝ベッケンバウアーに「90年代最高の選手」と評された彼でさえ、日本で大きなインパクトを残すことはできませんでした。
イニエスタはどうなんでしょうか。フィジカルを前面に出したり自分でゲームを決めるタイプではないので長続きしそうなイメージはありますよね。それにしたって、年俸が32億円というのはいくらなんでもハードルが高すぎるような気もします。
いずれにせよ、まだ来るかどうかもわからないので、サッカーのニュースでよくある「どうなるか見てみよう」という無意味なコメントで締めさせていただきます。