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【映画】『きみの鳥はうたえる』が活写した“かけがえのなさ”について

OMSBが「Think Good」のヴァースを蹴りはじめた瞬間から佐知子(石橋静河)のダンスが終わるまで、余計なできごとはなにひとつとして起こらない。「僕」(柄本佑)も佐知子も静雄(染谷将太)も、ヒップホップ・アンセムをそのまま具象化したような函館の夏の夜に、ただただ身を委ねている。

パーティーが終わり、クラブを出た3人は、なまめかしいカーブを描く市電の線路をふらふらと横切っていく。明け方の五稜郭公園前停留所を見据えるこのロングショットが、映像的な美しさをはるかに超えて胸を打つのは、登場人物たちが「これしかない」という的確さで終わりの予感に満ちた幸福の只中を生きているからに他ならない。

佐藤泰志の同名小説を原作とした映画『きみの鳥はうたえる』(監督:三宅唱)の中盤に用意されたこのシークエンスを見るために1,800円を費やすことは、現代の日本を生きる僕たちに許された数少ない善行のうちのひとつである。

なんなら3,600円払ってもいい。デートムービーとしても秀逸だし、1人で2回見ても決して損をした気分にはならないだろう。まあ、僕は新宿武蔵野館の割引クーポンを使って1,500円で見たのだけれど……。

原作とシナリオの話

『きみの鳥はうたえる』の映画化にあたって、三宅唱は原作小説のメロドラマ的な挿話をオミットし、一瞬の輝きとして描かれている箇所を最大限に尊重(拡大)することで、まったく別種のドラマを構築してみせた。

面倒くささの極地とも言える「男・女・男」の三角関係という古典的なフォーマットを参照しながらも、「面倒くさい関係は嫌だから」という佐知子の言葉に物語が従属するかのように、決定的なできごとは曖昧に回避され続ける。

しかし映画の最終局面において、柄本佑、石橋静河、染谷将太という俳優陣の理知的かつ重層的な演技によって維持されていた幸福な関係がついに決壊し、彼と彼女の複雑を極めた表情がスクリーンに投射されたとき、観客たちはなにもかもがあらかじめ装置されていたことにようやく思い至るのだ。

監督自身が手がけた『きみの鳥はうたえる』の脚本では、ラストシーンの2人の心理を長大なト書きで丹念に描写している。同作の脚本が掲載された『シナリオ』(2018年9月号)のインタビューで、三宅唱はこのト書きについて「そういうものは書くべきではないと思っていた」としながらも、「こう演じてほしいという指示ではなくて、かれらへの手紙のような気持ちで書きました」と俳優陣に対する信頼を語っている。

結果として「制作部や演出部のおかげで、ほとんど順撮りでした。積み重ねっていく時間が、僕が書いたト書きを、無理なく自然と、越えていってくれるだろうと思っていたので」という目論見通り、ラストシーンの「顔」は活字による心理描写が存在することなど完全に忘却したような強度で映画の中に記録されることになった。

演技の話

実を言うと、「僕」、佐知子、静雄の3人(ないしは2人)で過ごす「遊び」の時間があまりにも破格であるがゆえに、主演陣がその他の人物と関係する際に演技のレベルに違いが生まれていることが(鑑賞直後は特に)気になっていた。

『きみの鳥はうたえる』と同日(2018年9月1日)に公開された『寝ても覚めても』の濱口竜介監督は、『ユリイカ』(2018年9月号)に掲載された三宅唱への質問状において、「書かれたテキストをベースにした演技と、即興をベースにした演技が明らかに存在しているように見える」と指摘しつつ、「こうしたことに三宅くんが自覚的でなかったわけがない」と綴っている。

濱口竜介はさらに「あらゆる問題を超えて、そのように撮ることを選んだ理由」を三宅唱に問いかけるのだけれど、この演技の質的な違いについて、僕なりに考えたことをまとめてみたい。

「こうした演技の問題を一身に担って見えるのはやはり石橋静河」と濱口竜介が看破している通り、たとえば弁当屋で後輩のみずき(山本亜依)に対して佐知子が発する「ちょうどいいって感じ」といったセリフは、自然さを装うことによってむしろ不自然に上ずった印象を与える。しかし、この不自然さこそが重要なのかもしれない、という考え方もできる。

みずきはもちろん、濡れ雑巾のように疲弊した本屋の店長の島田(萩原聖人)や、別の宇宙をひたすら真剣に生きている森口(足立智充)との対話が、そもそも「僕」や佐知子に即興を要請するほど自然で親しげなものであるはずがないからだ。つまらないものの見方をするならば、彼らが他者としての存在感を放っているからこそ、3人で過ごす時間の特権性がより際立っているとも言えるだろう。

そう考えれば、唯一、静雄の母・直子を演じる渡辺真起子(三宅唱の出世作『Playback』では“妻と母”のアクロバティックな1人2役を好演した)だけが、彼らの幸福を脅かす存在として演技の階層差を飛び越えているように見えるのも、構造上の必然なのではないか、という気がしてくるのだ。

感情の話

僕は人間の感情の専門家ではないけれど、「自分がどんなときに幸福を感じるのか」くらいは経験的に知っている。たとえば美味しいものを食べたとき。気持ちのいい音楽を聞いたとき。美しいスポーツの試合を見たとき。面白い文章を読んだとき。そして好ましい人(たち)と同じ時間を過ごしているとき。

あるいは、素晴らしい映画を見ているときや、エンドロールが終わって劇場内が明るくなった数秒後に椅子をきしませながら立ち上がり、覚えていたり覚えていなかったりする光や音や俳優たちの顔やセリフを反芻しながらトイレで用を足したあと、映画の登場人物にインスパイアされたような所作で煙草を吸っているときも、たぶん、幸福と表現して差し支えない時間だと思う。

残念ながら、どれだけ正確を期そうと力を注いだところで、僕にはそういった幸福を納得できるような形で表現することができない。怒りや悲しみにしても同様で、もし真実めかした切実さを保持したままそれらをパッケージすることができるならば、僕はいまごろもっと高給取りになっているはずだ。

能力がないからこそ、自分がやりたくてもできないことを実現している人や作品に心を惹かれる。絶対的に優れたなにかに打ちひしがれて呆然とすることがなくなったら、きっと人生の楽しさは半減してしまうだろう。

『きみの鳥はうたえる』は幸福さや親密さ、さらにその内奥にある登場人物たちの微細な感情の揺れ動き――ある瞬間にしか存在しない、かけがえのないグルーヴのようなもの――をほとんど完全な形のまま提示してみせることによって、見るものに鮮烈な印象を残す。

この素晴らしい映画を見終えたあと、新宿武蔵野館の喫煙所で柄本佑を真似て気怠げに煙草を吸った(場合によっては、ライターまで借りた)のは、決して僕やあなただけではない。

公式サイト 映画『きみの鳥はうたえる』オフィシャルサイト


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